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zoom RSS 大人になると、子供の気持ちがわからなくなるのだろうか?

<<   作成日時 : 2009/05/08 00:06   >>

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子供の時は「子供の気持ちがわからない大人にはなるまい」と思っていたが、大人になったらそれも揺らいでしまう。そんな人間は多い。何故だろうか。
それが特別な現象ではなく一般的なことだとしたら、私だけが逃れることは確率的に不可能だろう。なので、こうして意識化することで対策をせねばなるまい。私には子供はいないが、子供を相手にする職業に就いている。また、知り合いが学校教師を目指している。そうでなくても、子供の気持ちがわからないというのは気色悪いものだ。

私は小中学生の頃に酷い虐めにあったが、周囲の大人たちは誰一人として解決する能力が無かった。馬鹿揃いの学校教師はともかくとして、両親にもその能力が無かったことが不思議でならない。
馬鹿揃いと書いたが、私の虐めの件に対応した学校教師の中で唯一まともな方がいた。その人は私と同じように酷い目に遭った経験を持っていて、最も的確な対処をしてくれた。それでも私の望む30分の1にも及ばなかったが、私は彼を責める気は全く無い。今でも感謝している。その他の馬鹿教師は殺してやりたいが。
さて、対応した大人は学校教師だけではない。両親も積極的に対応した。学校に文書も送ったし、毎日のように私を励ました。今となっては不適切な対応であったと、特に父親が嘆いているが、私はこのことで両親を恨む気持ちは全くない。むしろ、両親の対応がなかったら私は死んでいただろう。または殺されていた。

さて。私の感情とは別に、虐めに対応する能力の有無を分析していこう。感情だけだらだらと書き付けるのもいいのだが、本来の目的はタイトルの通りなので・・。
馬鹿教師共は論外として、唯一のまともな教師にも対処する能力が無かった。私と同じような経験をしてきたにもかかわらず、である。最も的確な対処をしたとはいえ、それは相対的な話。私を虐める男子生徒を1人懲らしめただけであって、女子生徒に対しては無力であった。フェミニストの最も悪しき側面が出てしまったわけだが、それでも当時の私にとっては大きな救いになった。今まで得た情報から総合しても、学校教師の中でかなりまともな部類に入るのだろうと推察する。
私の両親は、この日本では珍しい部類にはいるのだろう。家族仲が良いというのは珍しいことなのだということは、子供の頃は知らなかった。具体的に語っていくと長くなるので割愛するが、おそらく日本で最も的確な子育てが出来る人間の部類に入るだろう。その能力は弟や妹にはある程度受け継がれているが、残念ながら私には殆ど受け継がれていない。

わかるだろうか。
その彼らでさえ、虐めに的確に対処するのは困難きわまりないのである。

私が後に精神病を発症し、今でも苦しみ続けている事実からすれば、彼らの対処は失敗に終わったということである。それについて彼ら・・特に父親が悔やみ続けているのが悔しくてならない。彼ら3人・・特に父親は最も心血注いで事態に対処した人間であり、たとえ対処法に幾つか欠陥があったとしても、本来ならば賞賛されて然るべきである。しかし、私は結果として惨めな病人に成り下がった。
(精神病者を差別してはいけないとしても、「精神病になったこと」まで肯定してはならない。)
父親は今でも苦しみ続けている。
「解決しようと努力しました」というアリバイ作りに腐心した馬鹿教師共が今でものうのうと教師でありつづけ、最も真摯な対応をした父親が苦しみ続けているというのは、実に理不尽なものである。怒りと悲しみがこみ上げてくる。父親は自分が苦しみ続けていることに一定の納得をしているようだが・・。
(その病的なまでの誠実さは上の弟に受け継がれている。私に足りないものの1つでもある。)

私の父親は、やはり子供の頃に酷い虐めに遭っている。他人の心を理解することに関しては、私など到底及ぶものではない。母親も少なからず嫌な目に遭ってきた。父親に比べると多少無神経な所はあるが、人の心がわからない人間ではない。
もちろんそれらの能力は、子供の頃の経験だけで培ったものではないだろう。しかし、ならばいっそう虐めに対処する能力がありそうではないか?
と、普通は考える。

しかしどうだろう。この間、興味深い話を聞いた。
大人になるにつれて記憶力が低下するのは、一般的に脳が「硬くなる」からだと言われている。生物学的にはそうなのだろう。また、覚えることが多くなるから、1つ1つの事柄に対する絶対的な記憶が薄くなるのだとも言える。
しかし、それだけではないらしい。
人間の能力は、成長するにつれて質的に変化するそうだ。子供の頃は、絶対的な記憶量がモノを言うが、大人になるにつれて「物事に臨機応変に対応する能力」が幅を利かせてくるというのだ。頷ける話である。

この話から、普通は大人になれば物事に対処する能力が高くなり、虐めにも対処出来るはずでは・・と思うだろう。私も思った。
しかし、この話を拡張して考えよう。つまり、「大人と子供では能力が質的に異なる」という観点で考えるのである。大人と子供のボーダーゾーンもそこらへんにあるのかもしれない。
そう考えると、質的に異なるのは能力だけではない。社会的にも、むしろこっちの方が大きく異なるのではないか?

極端な話をしよう。
大人が四六時中子供に張り付いていれば、虐めから守ることは出来る。しかし、それでは大人の人生はどうなるのかという問題になる。四六時中子供を虐めから守ることを最優先すれば、守護者の人生はメチャクチャになってしまう。仕事は片手間になるし、趣味に興じる時間もなくなる。大人が子供のために犠牲になるなど、許されるべき事ではない。稀にはそれが苦痛でない、かつ、時間的・経済的余裕のある大人もいるだろうが、「稀」では何の解決にもなっていない。
虐めの加害者を皆殺しにすれば、被害者の気持ちは晴れるかもしれない。しかし残念なことに、それを行うと法で罰せられるのだ。実行者の人生は間違いなくメチャクチャになってしまう。また、それを最後まで完遂できる武力の持ち主は限られてくる。現実は小説のようにはいかないのだ。

考えてみると、大人になるほど極端なことが出来なくなるように思う。もちろん、それは決して悪いことではない。人生の幅が広がっているということだ。が、敢えて悪く言えば、「しがらみ」が増えたということだ。これまで築き上げてきた人生をパーにするのが勿体なくて出来ないのだ。
あの頃に加害者の1人くらい殺しておけばよかったと思うが、今となっては失うものが多すぎる。被害者本人でさえそう思うことがあるのだから、周囲の人間からしたら自分の人生を捨てたくないと思うのは当然だろう。

さて、後ろ向きなことばかり語ってきたが、それだけで終わるのも味気ない。
今までの話を総合すると、虐めは個人的な能力だけでは解決できず、社会システムを根っこから変革しなくてはならないということになるだろうが、そんなことは多くの人が言ってきたことである。
確かにそれは正しい。個人の能力で解決するのは具体的なケースの1つとしては可能でも、全体的な解決は不可能なのは明らかだ。
しかし、だからシステムを改善しよう・・では短絡的すぎる。
システム改善によって救われる子供たちは大勢いるだろうが、それはもっと先の話。既に惨めな思いをして涙を呑んでいる人間は多い。自殺に追いやられた人間もいる。
死んだ人間は救いようがないとしても、私などはまだ生きているわけだが・・。一生惨めな思いを抱えて生きていくのだろうか。自分の責任でないことによって。
既に起こってしまったことに対して、どのように対処するか。そこが抜け落ちているのではないか?
虐めの話をすると、すぐに全世界的なレベルの話をして社会変革に結びつける人がいる。それはそれで結構なことだし、そういう話をする人は尊敬できる。だからこそ私も革命家を目指しているわけだが・・。
しかしその一方で、私自身に救いはあるかということも考える。たとえ人民の力で革命を起こしたとしても、私が復讐を成し遂げ、かつ、重大なリスクを負わずにいられる社会にはならないだろう。
革命とはある意味、未来を守る行為である。既に死んだ人間にとっては、革命の成功は意味を成さない。革命が成功した後の社会で幸福に暮らせる人間ならば、志半ばで死んだとしても「無念」には思っても「惨め」には思わないだろう。しかし、革命後の社会でも結局は惨めな思いをして生き続ける人間にとっては、ほぼ確実に「惨め」の部類に入るだろう。

革命家というと、そのイメージは私とかけ離れたものである。勇敢さ、知恵、良識やモラル、カリスマ、行動力・・それらは一定の条件下で私もある程度は発揮するものである。量的にも質的にも革命家としての水準には遠く及ばないが、それは私が発展途上だからと言える。
しかし、歴史に名だたる革命家たちは私のような惨めな幼少期を過ごしただろうか。そんな話は聞いたことがないのだが・・。むしろ始皇帝やヒトラーなどの残虐な独裁者が陰惨な幼少期を過ごしたという話はよく耳にするのだが。
酷い虐めに遭うと、人間として腐っていくのはよくある話である。私も人間としてかなりな程度腐敗した。その辺りが革命家として最も足を引っ張っている点だろう。
更に言えば、体力。私にとって体力強化とは、当時の嫌な思い出が蘇る割合を高める行為なので、必然的に避けやすくなってしまう。いったん勉強が嫌いになるとなかなか勉強が出来なくなるのと同じように、日々の習慣における能力強化ではこれが致命的なのである。

はてさて、私のような惨めな人間が、どうやって革命の一部になり得るだろうか?
また、革命を成し遂げたところで救いはあるだろうか?
ううむ、味気ないと言いながら、やはり後ろ向きなことしか語れない。困ったことだ。
私に救いがあるような革命を成し遂げるのは不可能である。何故ならば、私の救いは加害者全員の死であるからだ。それでは革命のモラルを維持することは出来ない。実に困ったことだ。

惨めな思い、悔しさ、怒り、憎しみを革命への原動力に置き換えたいところだが、今となってはそれも不可能である。はっきり言うと、あの頃の思い出は足手まといでしかない。革命への原動力というならば、他に幾らでもある。だいたい、過去の陰惨な思い出を原動力にしてきたからこそ袋小路に突入しているのではないか・・。
私はその後も人生を生きてきたわけで、その中でもっと前向きで強力な「萌え」という原動力を獲得してきた。もはや小中学時代のルサンチマンなど必要ないのだが、そこはコンピューターのようにデータを消去できない人間である。年月を経るごとに精神が腐食していくのだ。
腐女子・腐兄の「腐」は発酵の意味だが、私の場合は漢字そのまま腐敗の意味である。

ちなみに、偉そうなことを言ってる私自身が虐めに的確に対処する能力があるかと言えば、そうではない。せいぜい被害者に状況を説明することが出来るくらいだ。教師としてのメンツなど関係なく、自分は虐めを解決する能力はありませんと、最初から宣言する。「解決しようと努力したアリバイ」を作ることはしない。
まあ、その程度だ。
人間としてはあの馬鹿教師共より遥かに上だろうが、教師としてはどうだろうか。無駄に被害者の心をすり減らすことはなくても、被害者の救いになってないことには変わりない。
子供の頃に虐められたからといって、虐めを解決する能力が育つわけではない。自分自身を見つめれば簡単に得られることなのだが、それがわかるのに随分と時間を費やしてしまった。

・・何だかただの愚痴になってしまったぞ。失敗、失敗。
革命家とは冷徹かつ楽観主義者であるべきなので、今回のように感情にまかせて悲観的なことを書いていたのではあまりよろしくない。まだまだ精進しなくては・・。むにゃ。

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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
以前にも書いたかも知れませんが、私は教師に不適切な扱いを受けました。
まぁ、不登校なのですが・・・(子供のうつ病、とも考えられる)
何で学校に来たくないのか?と聞かれて私が答えられないでいると、
「先生が嫌いなの?」と言ってきた。
嫌いでしたが・・・面と向かって、「あんたのこと嫌い」と言える図太い神経の子供は不登校には陥らない、と思います。
わかってないねー。いやですねー。まぁ、多くの場合大人と子供、というよりも、対人関係における、共感能力の欠如があるでしょう。あとは知識不足。
私の「不登校」という必死のSOSも、教師や親から見たら、単なる「怠け」であったというのは、情けなくなります。
とちの木
2009/05/08 04:00
気に入らないのは、明らかにおかしいものに従ってしまう羊のような人々だ。
おかしいものはおかしい!
バカな連中のことを馬鹿どもと、庶民がラッパのこどく大騒ぎすればいいのに、庶民は沈黙し、発言力、影響力のある人間は当たり障りのない発言しかしない。
もちろん本当のことを公開の場で発言して、命を狙われている本物の『いくさびと』も日本にはおられる。
私も今は影響力、発言力を勝ち取ることに集中したい。
ブログを書いていても、話聞いてるのは数人ではないかと思って、今は小説にすべてを賭けている。
でもアッキーさんの心の叫びを悲観的とは思わない。当たり障りのない有名人のブログよりも、刺激的なメッセージのほうが心に響く。
いじめの被害者は何も悪くない。加害者が悪。そう言い切れる人は少ない。
どれだけ悪質な犯罪か教室や職場で実行され、被害者は地獄に追いやられ、加害者は無罪放免か。
無名の人の話を世間は聞かない。情けないが痛感している。
しかしアッキーさんの言葉で救われた中学生が、高校生が、一人でもいたら、失敗ということはない。
沢里尊
2009/05/08 17:43
とちの木さん、こんばんは。
何だか小5の頃の担任の顔が浮かんできました。そういう教師はどこにでもいるようですね・・。あの教師は、生徒が学級の係に立候補しないことを責め立てる人間でした。私はみんなの前で立たされて、立候補しない理由を無理やり述べさせられました。よっぽど真っ直ぐな人生を歩んできたんでしょうね。惨めに生きてきた人間の気持ちを解さない人でした。
対人関係における共感能力の欠如。人としてはともかく、教師としては致命的な欠陥ですね。必死の叫びをすぐに「甘え」だとか「怠け」だとか切り捨てる連中が幅を利かせている世の中。弱者の揚げ足取りをして黙らせるんですよね。私も当時は心の沈黙を余儀なくされていました。怒りや悔しさ、情けなさでいっぱいになります。
アッキー
2009/05/08 22:51
沢里さん、こんばんは。
被害者も完璧な人間ではないので、必ず間違ったところが幾つかはあるんですね。卑怯にも、そこを突いて「被害者にも悪いところはある」と主張するのが常套手段のようです。巧妙に論点をズラしている。人間として欠点があることを声高に押し出して、虐められても仕方がないという空気を作り出す。言ってる本人たちは中立的な立場を取ろうとしているつもりなのかもしれませんが・・。
そういった連中が「被害者にも虐められる原因がある」と言うならば、私は「原因はあっても責任は無い」と言うことにしています。例えば、虐められる人間の体や心が弱いことは、虐められる原因・要因にはなっても責任にはならない。責任は全て加害者側にある。加害者本人と、その保護者。教師にも責任が無いわけではありませんね。
こういった理論武装をしても、自分ではもう使うことが出来ません。なので毎回空しい思いをしていますが、この文章を読んだ人が有効活用できれば少しは救われますね。
アッキー
2009/05/08 23:13
こんばんは。

>子供の時は「子供の気持ちがわからない大人にはなるまい」と思っていたが、大人になったらそれも揺らいでしまう。そんな人間は多い。

私の場合は、「子を抑圧しない大人」になりたいと子供の頃から思っていました。私の父親は教師でしたが・・・まあ、苦手なタイプでしたね。親を排除するのは難しいので、大人になって結婚する時はまったくタイプの違う人を選ぼうと小学校の頃に決意しました。で、実際にまったく正反対のタイプの人を選びました。
今、子供に恵まれて親になり気が付いたことは、私も父親同様に子への支配欲が激しく存在する事実。正直、自分のそんな感情に吐き気がします。自分の小説で、子の支配者の象徴である父親を殺すのは自分の中に存在する支配欲を切り刻みたいからなのかなあと思います。死んでくれ、私ってところですかね。
アッキーさまのブログは何時も考えさせるテーマがあって面白いです。これからも、どんどん想いを発信していってくださいね。

みっちゃん
2009/05/14 19:08
みっちゃんさん、こんばんは。
ああいう人間にはなるまいと思っていても、自分の精神の中に棲み続けていて、自分を腐敗させていくんですね。負のスパイラル。私もいつの間にこんなに嫌な部分が増大したのかと思うと頭も胃も痛くなります。陰鬱な気分で落ち込んでしまいますね。
それにしても周囲を見渡すと、親との関係で苦しんでいるという人が多いです。私はその点では恵まれていたわけですが、それでも両親と大きな確執があったことが記憶する限りで4回以上あります。今では両親に恨みや憎しみはないのですが、訣別しようと思ったこともありました。関係を修復できたのは救いでした。なにしろ結婚相手はおろか、今までに恋人の1人もいないので、この上家族とまで不仲だったら多分死んでました。
アッキー
2009/05/15 00:23
もしも私が親になったら、子育てに失敗するというイメージが離れません。子供を支配したいという感情、自分の中にも存在します。実際に子供がいない状態でさえこれほどなのだから、もしも子供ができたらと思うとゾッとします。
現在「親殺し」がテーマになっている小説を執筆中です。いずれ発表します。そこで描かれる「親」は、やはり自分の分身なのでしょうね。小説を書くことで自分が良い方向へ変わっていければと思います。
アッキー
2009/05/15 00:23
こんばんは。これは重厚な記事ですね。
…おれは苛められたことはないな。ただし苛められる要素がなかったわけじゃない。生まれつき髪が茶髪なんで目立ったし、内気で、今は丈夫だが子供のころは体も弱かった。苛められる可能性は十分、その兆候もあった。おれはある時、苛める、かまう人間に勝つにはどうすればいいのかと考えた。
やがておれが結論したのは「笑い」をとること。なぜそんな結論したのかはわからない。教師はアテにならないという親のありがたい意見(笑)もあった。そこで勇気をだして小4のころ、みんなの前でギャグを言ってみたんだな。ウケるまで、ことあるごとにやった。いつのまにか面白い奴というレッテルがついた。それはその後も長らく盾となり武器になり、バカからおれを守った。狂気に勝てるのは笑いだけなのかもしれない、というのが、おれの人生哲学のひとつ。ユーモアだけは最悪の事態でも忘れないでいようと思ってる。できれば。
たぶん、いじめ問題はシステムより、プライドだと思う。現代の日本にはプライドがない。ユーモアもない。そして教師は、いまの日本の負をもっともよく体現してる。
火群
2009/05/16 00:55
火群さん、こんばんは。
「笑い」で対抗。凄く有効な手段だと思います。かつて私の教え子に、周囲から浮きまくっている子がいました。よくしゃべるし、妙な知識も持っているし、とにかく強烈なキャラでした。多分学校で虐められているのだろうと思っていましたが、話を聞くとそうでもないようでした。周囲から「面白いキャラ」と評価されて、人気者だったのです。
そう言えば私も高校時代はクラスの面白い人ランキングに名を連ねていました。高校生の頃は実に楽しい学校生活を満喫していましたが、面白いキャラクターとして認識されていたのも理由の1つなのでしょうね。状況が悪いときでもユーモアを忘れないというのは重要だと思います。事態を打開出来る可能性が高まりますね。
アッキー
2009/05/16 02:42
記事の中ではシステムの欠陥を前に出していますが、プライドも凄く大事ですね。システムに欠陥があっても、その中で教師の責任が無いわけはない。私の小中学生時代の教師の多くは、ろくにプライドが無くて、その場を取り繕うことばかり行っていました。そうして生徒が卒業するのを待っているだけなんですね。私はプライドにもシステムが関わっていると思っていますが、それでも「このくらいの信念もプライドも無いのなら教師辞めろ」と言ってやりたい連中は何人もいますね。憎しみは増すばかりです。
学校教師という職業は、「教師にでもなるしかない」というものではないはずだと思っています。なので、まともな信念とプライドを持っていないとなってはいけないものだと思います。最低限「これだけは」というラインがあるはず。
アッキー
2009/05/16 02:42

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