佐久間闇子と奇妙な世界

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zoom RSS 感覚が少し変わったかもしれない

<<   作成日時 : 2010/02/18 01:43   >>

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私は恵まれているのだと思う。「類は友を呼ぶ」ということでないなら、そういうことだろう。
この僅か数年の間に、私はインターネット上で何人もの友人を見つけることが出来た。おかげで実生活での友人がいなくても笑って済ませることが出来る。
共通することは、繊細さであったり、思慮深さであったり、反骨精神であったり、(オタクな)知識であったり、(オタクな)教養であったり・・・。強さ、或いは弱さを共有することが出来る。
思えば小中学校時代は、周囲にそんな人間がいなかった。或いは、いたとしても引っ込み思案同士のために認識できなかった。学校とは実に狭い世界である。
周囲に理解者がいないとき、「誰にも理解されない」ことよりも、「自分が特別な存在だと考えてしまうこと」の方が恐ろしい。なので昔は自分を指して少数派だと言うのは憚られたが、今では仲間がいるおかげで堂々と言える。

私は気にしすぎではない。むしろ、これくらい神経を使っても足りないくらいだ。更に神経質にならなくてはならない。しかしそれで心が潰れてしまっては元も子もない。かつては、これ以上神経質になれば潰れてしまうと思っていたが、そうではない。
私は既に潰れているではないか。精神病を発症したときに、一度潰れているのだ。
ということは、再生するためには神経を張り巡らせる必要があるわけだ。いっそ無神経であろうとすれば、堕落は避けられない。発症してから私が行ってきたことは、それとは正反対・・・悩み、苦しみ、怒り、憎み、嘆き、心の中で何度も人を殺し、或いは、妄想を楽しみ、小説のネタを考え、生徒に教えるための勉強を行う・・・およそ考えることを停止したことはなかった。眠っている間でさえも何か考えていたようだ。
これは24時間トレーニングというやつではないか?
24時間できるトレーニングは、イメージトレーニングを除いて他にはないだろう。

作家の中には、ネタが尽きて堕落する人も多い。かつては優れた作品を生み出していても、今では人の作品に文句つけたりするばかりで、明らかに「心が老いた」状態になっている人もいる。
それは悲しいことだが、私はそうならないだろう。アイデアを書きつくす前に寿命が来るからだ。この泉のように湧いてくるアイデアは、何を原動力としているのだろうか?
私が小説を書く理由の大半は、おそらくはカタルシスのためだと言っていい。ストレスがアイデアを生み出すのだ。ストレスを解消しようとして、楽しいことや痛快なことなどを脳が構築するのだ。詳しいシステムはわからないが、「この私が」「この社会に」生きている限り、私が小説家になることは決定されていたように思えてくる。

私の精神病の症状は、次第に内容が変化する。なので、幻覚や幻聴を脳内で破壊しても、新たに別の幻覚・幻聴が現れる。それは、精神病を発症してから後の体験も多く含まれる。仮に私の嫌な経験が小中学校時代の頃に限定されるのならば、既に快復しているとも思えるくらいだ。
それだけ酷い目に遭い続けているのだが、同時に恵まれてもいる。「この社会」では、遅かれ早かれ私がボロボロに傷つくのは決定されていたように思う。そして、小説を書くのも決定されていたのだ。

恵まれていたのは、まずは何を置いても家庭環境だ。私がこうして善良で繊細な人間に育ったのも、小説を書くネタに困らないのも、全ては両親の完璧な計画だったのサ。つぎ込んだ手間の割には私が優秀でないのが玉に瑕だけど・・・まあ、許してチョ。ホーホッホッホ、ホーホッホッホ。
星のカービィはさておき、家庭環境に恵まれない人間が予想以上に多いことには、本当にびっくりしたものだった。虐待とまではいかなくても、子供への態度に深刻な問題のある親は多いらしい・・・。
考えてみれば、もしも私が子育てをしたら、間違いなく深刻な問題が起こるだろう。おそらく、それが「この社会」における標準的な人間なのだ。そのことを認識してから、子育てを上手に出来る人間に対する尊敬の念が更に強くなった。

もちろん私の親も何の問題もなく子育てを行ってきたわけではない。記憶する限り、親が原因の自殺未遂は3回
ある。しかしそんなことは、今からすれば些細なことである。3回とも幼い頃の話であるし、他に起こった様々な揉め事も「たまにしか」起こらなかったことである。
ここが重要なポイントで、問題が起こっても、それが「いつもと違う異常事態」であればOKなのである。問題が日常化することが最も恐ろしいのだ。普段が問題のない家庭なら、何か起こっても大概は大丈夫だ。なにしろ、問題が「起こること」は回避できない。問題は必ず起こる。対処の仕方がキーポイントである。
子供の精神というのは、多くは自意識から大人になる。つまり、「実態が伴わないけれども自分としては大人のつもり」という状態になる。大多数の子供がそうなる。誰だってそーなる。私だってそーなった。
ジョジョネタはさておき、それに対する親の対応として、「一個の人間としてリスペクトしつつもフォローはしてあげる」という、とても難しいことが要求される。できるか、そんなもん。

さて、この難しい問題を、私の親は金で解決した。・・おっと、誤解しないでほしい。金の使い方が上手だったということだ。小遣いは多めにあげるが、その代わり欲しいものは全てそこから出せという方針である。つまり、「親にねだってはならない」というルールが設定された。もちろん衣食住は保障した上での話だ。これこそ真の自己責任というやつではなかろうか?
欲しいものがあれば、金の管理は自分でしろということだ。ジュースが飲みたいとか、お菓子が買いたいとか、欲しいオモチャがあるとかいうとき、金が足りなくても、親は一切金を出さない。そうなると子供は金の使い方を覚えるし、親としては「ねだられる分の金」が浮くので、実はトータルでは得してるのだ。「ねだる→買ってやる」というシステムは、親の都合や気分で左右される上に、トータルでは損である。しかも子供は「買ってもらえなかった記憶」を強く覚えているので、つぎ込んだ金に対して子供の満足感は驚くほど低い。

一般的に、大人と子供の金銭感覚は10倍の差があると考えていい。大人が1万円使う感覚と、子供が千円使う感覚が同じくらいだ。子供にとって、金の価値は大きい。「ねだる→買ってやる」というシステムの中では、大人は無尽蔵に金を持っているように感じるだろう。家庭の経済事情も知らない子供が、流行に流されて親に何でもかんでもねだるという悪循環は説明するまでもない。
だいたい人間たるもの、その日その日の感覚を自在にコントロールできるわけがない。自分1人でも大変なのに、子供の感覚まで完全に管理下に置くのは不可能に近い。何よりも、労力の無駄遣いだ。そんなことで心身を消耗しては勿体無い。同じ力を、例えば子供とのコミュニケーションに使えば、遥かに高い成果が得られる。
幅広い知識、豊かな教養、巧みな弁舌、優れた思想。確かにそういうものも重要だと思う。しかし私の親が子育てに成功したのは、それらの能力以前に、しきたりや世間体に囚われず無駄を削ぎ落としたことが前提にあるような気がする。

・・・とまあ、口で言うだけなら簡単なのだが、実際はそんなに簡単ではない。無駄を削ぎ落とせばいいと言われて、すぐに削ぎ落とせる人がいたら、お目にかかりたいものだ。
人間は様々なしがらみの中で生きている。上記の小遣いの件にしても、私は小中学校時代に散々周囲の連中から非難された。この程度の変革でも非難されるということだ。合理的であっても今までと違うことを行うと、信じられないほどの非難が飛んでくる。
それに耐えられるかという問題なのだ。「しがらみ」というのは、端的に言えば「周囲からの反対・非難という圧力」である。実行するだけなら、大変ではあるが可能だ。しかし、「周囲の反対を押し切ってまで」実行できる人間は限られてくる。

私の両親は、いかにしてしがらみと戦ってきたか?
父親は、くだらない文句を言う人間とは絶縁してきた。それは高い知性と強い精神力に裏づけされなければ出来ない行動だ。母親は、頼られる人間としてくだらない文句を退けてきた。巧みな弁術や卓越した処理能力に裏打ちされている。
さて私なら、しがらみを打ち破れるか。うん、それ無理。
くだらないことに気を煩わせて、時間を浪費し、せっかく成長した精神が退化する毎日を送っている。それだけ自分が繊細であるということだが、そんなものは何の価値も無い。弱く善良に生きて何の得があるのか。不幸になるばかりだ。
しかし「無理」だというのは「現時点での話」だ。一度ぶっ壊れてから今まで、知性・教養・弁術・精神力など、様々な能力がパワーアップした。そしてパワーアップは今のところ止まる気配は無い。
もっとも、それと同時に悪想念も「この社会」の毒を吸い取って日々パワーアップしている。なので薬は手放せないし、佐久間闇子に毒を吸い出してもらわなければ生きていけそうにない。
これからも佐久間に、せっせと毒を吸い出してもらうことにしよう。そして毒を吐く佐久間であった。
全く快復に向かってない(むしろ少し悪化している)のだけれども、自分自身の病について感じ方が少し変わったかもしれない。それはおそらく、少し前から「恐怖の心」というタイトルの小説を書き始めているからだろう。私の小中学校時代の記憶を掘り起こして書いているので、辛く苦しい作業だ。幻覚や幻聴が酷くなった。しかし書かずにはおれない。親指が内出血した。書き進めていると、何か新しいものが見えてきた。
しばらくは不調の頻度が高まるかもしれないが、これを書き上げることで、作家として更なる飛躍が訪れる予感がする。

良き家庭、良き友に恵まれているのだから、過去を克服すれば素晴らしい人生が待っているに違いない。


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内 容 ニックネーム/日時
ネットの友人は心の友かもしれない。日頃会っている友人知人は、よほど親しく会話しない限り、考え方なんて知らない。
これは親族も同様だ。自分の「すべて」を知っている人なんて、そうそういないものだ。
私も思春期の頃は自分が少数派だと思って焦った。
変態なのかと?
しかし作家にとってアブノーマルは凄い武器になるので、人と違うということは素晴らしいことだと思う。
私もアイデアは泉のごとく浮かんで来る。妄想で鍛えた想像力で、次々映像が浮かんで来る。
ここ数年。親が子を殺し、子が親を殺す事件が後を絶たない。
家庭という最後の砦が概念ごと崩壊しつつある今、良き家庭、良き友人は、なかなか得られない。
5歳くらいのとき、初めて一人で買い物をしたとき。天下統一を果たした気分だった。子どもにとっては大事件である。
中学生と接して、アッキーさんの言う技を私は前から習得していた。
小中学生は大人。個性を尊重して大人扱いする。けれども、完全に大人扱いは困るという気持ちも察して、守るところは守る。
教育の答えが出るのは10年後。翌日答えを求めたがる政治家には、ノーザンライトボムをプレゼントする。
(北斗ボム→夫・健介の必殺技)
沢里尊
2010/02/18 14:39
>沢里さん
日常会話では、言いたいことを満足に言えないままタイムオーバーということがよくあります。ネットでの方が深い付き合いをしている部分は多いです。
子供の社会では、周りと話が合わないというのは実に恐ろしいことで、すぐに虐めの標的にされます。大人の世界でも同じようなものかもしれません。
となると「周囲と違う」というのは、表現の場でこそ輝くのでしょうね。小中学生の頃に考えたことが、今でも生かされているというのは我ながら凄いと・・・自画自賛。
ここ数年は単なる不景気ということではなく、深刻な社会危機だと思います。経済大国日本・・・一方では高級料亭で毎度の飲み食い、一方では餓死者が出る。これはどういうことか。
家庭崩壊が増えてきたのも、これと無関係ではないように思います。家族の繋がりが無くて餓死、繋がりがあっても家族ごと追い詰められて殺傷事件。
恵まれた環境にいるからヨカッタ、では通用しない。自分だけ恵まれているのは幸せではない。
大人の感覚でも重大事態なのだから、子供はどれほど深刻な恐怖を抱いているか。そんな中で大人からの対応、教育は重大ですね。小中学生を子供扱いしすぎた「ゆとり教育」も、10年ほど経って弊害が出てきましたが・・。
教育界も少しずつ巻き返しています。身近なところでは、私も塾を開き、弟は教師を目指し、妹は保育士を目指しています。微力ながら・・と考えるのは、そろそろおしまい。現場の人間こそが問題を解決できる。
アッキー
2010/02/18 23:03

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