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<<   作成日時 : 2011/02/19 00:30   >>

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かつて、マンガは年輩の大人たちから「くだらないもの」と評価されていた。しかし、ここ最近ではマンガを評価する大人たちも増えてきたように思う。
その理由としては、一つはマンガの歴史が厚くなってきたからだろう。ここで語る“マンガ”は、戯画・風刺画の歴史に比べて浅いが、それでも今や半世紀以上になっている。その為に、かつてマンガが好きだった子供たちが、大人になってもマンガが好きなままでいるという事象が多くなっているのだ。子供と違って大人は社会的に一定の力を持ち、言葉も達者な傾向がある。それによりマンガの良さを社会的に広めることが出来るのだ。こうして私がブログで語っているのも、その一環であると言える。
理由の二つ目は、マンガの質的向上である。つまり、教育・風刺・解説などの狭い枠内で留まっていた状態から、様々な物語を描くという発展を遂げたのだ。それからも次々と新たなジャンル、新たな物語が描かれ、絵柄のバリエーションも増えていった。ストーリーや絵柄のバリエーションが増えることで、それまでのマンガを敬遠していた人間を新たに読者として獲得することになった。これにより、マンガは社会に浸透する。
理由の三つ目は、マンガが量産されるようになったということである。資本主義の原理として、“売れる”ものは量産される。それについては良し悪しあるが、良い面で言えば、より多くの人々がマンガを読めるようになってきたということだ。それによって、今までマンガを読まなかったような人々が新たにマンガに触れるようになり、やはりマンガが社会に浸透していく。読みもせずに「くだらない」と評していた人間がマンガを読んで感動したという笑える話もある。
これらの理由が複雑に絡み合い、マンガの地位も昔に比べて随分と上がった。しかし私は、あることがきっかけで、それについて危惧を抱くようになった。

<マンガを文学作品として評価する年輩の人々>
概略:「成熟した社会の条件の一つが、人類が積み重ねてきた知的財産を全ての人間が享受できるというものである。優れた思想や幅広い知識を身につけるには相応の知的な環境にある必要があったが、マンガの登場によって、大した教育を受けてない者までが人類の積み重ねてきた知的財産を拙い形であっても享受できるようになった。」
つまり裏を返せば、マンガを排除する感覚は、多くの人間が愚鈍な奴隷でいいという支配者・抑圧者の感覚であるという主張だ。かつて子供は低コストでこき使える労働力であり、大人の多くがマンガを「くだらないもの」と評価して、家事や勉強を強要していたことからも、頷ける話である。
一見したところマンガに深い理解を示しており、マンガの意義を鋭く捉えているように見える。しかし残念ながら、マンガについて一面的な理解しかしていない。やはりマンガを小説よりも劣等としているあたりにも表れているが、それについて語る前に以下の意見を紹介する。

<マンガの本質について語る若者>
概略:「マンガの本質は娯楽である。重厚でリアリティのある文学作品のようなマンガは本流から外れており、突き詰めれば作者のエゴを読者に押し付けているに過ぎない。現実に疲れた人間たちにカタルシスを与えるような、突飛で有り得ない状況を描くのが本当のマンガである。」
こちらは一面的で極端な思考であり、冷笑に値する幼稚な主張である。現実に疲れた人間にカタルシスを与えるのは現実離れした作品だけとは限らないし、作者と感性の合う人間は同じものを読んでも“エゴの押し付け”とは思わないだろう。あまりにも杜撰で、腹立たしいというより笑えるのだが、こういった思考を持つ人間が出てくる背景を考えると笑ってばかりもいられないのである。

<本当にマンガの地位は上がっているのか?>
年輩の人々で、更に進んだ考えを持つ人々は、「例えば外国の小説を和訳したものとマンガ化したものとで、どちらが原作の本質を深く捉えているかはわからない」とまで言う。
なるほど、ここまで来れば、マンガを小説より下だと見なしてはいないかもしれない。自分たちのよく知る文学の一部だと考えている。しかし、そこには重大な落とし穴があるのだ。
要するに、マンガを高く評価する年輩の人々は、マンガを啓蒙の為の道具として考えているわけである。彼らが高く評価する“マンガ”とは、重厚でリアリティのある文学作品のようなマンガであって、現実から乖離した荒唐無稽なマンガは、相変わらず「くだらないもの」でしかないのだ。何という嫌な話だろうか。
そこで、そういう荒唐無稽なマンガが好きな人間が反逆するのである。上記の若者の主張が一面的すぎるのは、すなわち年輩の人々のマンガに対する考え方が一面的であることを意味している。高く評価している人々でさえ、結局はマンガを“自分たちのよく知る文学”の一部に過ぎないと考えている。彼らの認識では、自分たちの知らない種類の文学があることなど思いもよらないのだ。
現在の地位では、マンガは“サブカルチャー”である。なるほど、かつての状況を考えれば随分と地位は上がった。それは疑いようの無い事実だろう。しかし、いわゆる“正統な”文学との間には、僅かではあるが絶対に覆ることのない絶望的な格差が存在している。残念ながら、それもまた事実だ。その格差を作っているのはマンガと“名作文学”の質的な差ではなく、読者層のインテリジェンスの差である。

<マンガは“名作文学”よりも劣るか?>
いかに優れた内容を含んだ文章であっても、それが読者に伝わらなければ、その読者にとっては価値の無い文章ということになる。内容は良くても文章が読みにくければ、読み取りに膨大な労力を費やすことになり、疲弊するだけで優れた部分を吸収できない。難しい文章からでも優れた内容を読み取れるのは、読む前から優れたインテリジェンスを獲得している者だけである。そうした人々も読み取りに苦労しないわけではないが、読み取りが“可能”であるという点において、高度なインテリジェンスを持たない人間との間に絶対的な差があるのだ。大したインテリジェンスを持たない人間からすれば、字面を追うだけで精一杯の文章は価値の無い“文字の羅列”である。しかし、高度なインテリジェンスを持つ者の多くは、それがわからないらしい。
そして、いかなる名作といえども、万人にとって名作であることは無い。自分の今までの人生や置かれている状況は千差万別で、それら全てを網羅し何がしかの感動を与えることの出来る小説など存在しない。いわゆる“名作文学”を読んでも何の感動も覚えないことも普通にある。しかし何故か、そういうときの年輩の人々の対応は、「まだ君が未熟だから」と評することが多い。もう少し誠実な人なら「時期が合わなかったから」と評することもあるが、そもそも感性に合わなかったとは考えないのだろうか? 「感性も時期によって変化するから今は読めなかった文章でも、いつかは読めるようになる」という思考は、真っ当なように見えて歪んでいる。すなわち、「いつかそれを読みこなすこと」を暗に強要しているということだ。強要されて読んだ文章が頭に入るのも、高度なインテリジェンスを持つ者だけである。
前置きはここまでにして本題に入るが、そもそもマンガが“名作文学”よりも劣るという論は、何を根拠にしているのだろうか。歴史の深さが何十倍も違うという事実を挙げる人もいるが、昔の文章ほど稚拙で読みにくいということも事実であり、“この現在”において同時に存在していることも事実である。歴史の長さだけで優劣を決めるのであれば、極端な話、我々ホモ・サピエンスは地球上で最も劣った生物であるということになる。しかし逆に最も優れた知性を持ち最も繁栄しているのは何故か。それは大雑把に言えば、知性を圧縮して積み重ねてきたからである。生物進化の歴史を語ると長くなるので割愛するが、この地球上において人間は、獲得した知識を世代を越えて伝えられる唯一の生物であり、それは言語や文字によって成されてきたということを確認しておく。
参考までに、獲得した知識を世代を越えて伝えられる生物と伝えられない生物とで、どれほどの差があるかを最も単純な計算で説明しておく。一世代で獲得できる知識の量が同じだとしても、100世代で50倍の知識の差が生じることになる。人間で考えれば、400万年で約10万倍になる。もちろん実際には知識が全て正確に伝わるわけではないし、無駄な知識や使われなくなった知識が省かれたり、知能の質的な飛躍があったりする。なので人間が他の動物の10万倍賢いとかいう話ではない。知識を世代を越えて伝えることで、人間は圧倒的な発展を遂げたということである。もちろん知識は優れた部分を中心に圧縮されて伝えられる。
その上でマンガの話に戻る。マンガには作者の人生が反映されており、作者の知識・経験・思想・感性などが圧縮されている。そこから得られるものは、人によっては“名作文学”を凌駕する。年輩の人々が納得しやすそうな例を挙げるとすれば、いわゆる“名作文学”などを読んだ作者が、それを下敷きにした上で自分の物語を作り上げているということが少なくないという事実だろう。
マンガを読む際に、そういった“裏”まで読み込むのは難しいという意見もあるだろう。確かに年輩の人々の殆どは不可能なことだろう。しかし、マンガオタクと呼ばれる人々にとっては普通に出来ることである。意識的に、あるいは無意識的に、日常的に行っている。出来る者からすれば決して難しいことではない。年輩の人々の多くが「くだらない」と評するものの中から、優れたものを獲得できる人間も、確実に存在しているのだ。そもそも世代が移ろうが人間の基本的な性質は変わらない。すなわち、生きる為あるいは幸せになる為に、より多くの知識を獲得しようとする性質だ。どれほど愚鈍な人間であろうとも、その性質から完全に逃れられるだろうか? ある方面ではその性質を失ってしまった人間でも、別の方面でその性質が開花しないとは言い切れないのである。少し具体的に言えば、いわゆる“名作文学”によって苦痛を与えられた人間が、マンガを読むことでその性質を開花させるというケースである。
小説というのも、作者の人生が反映されている。作者の知識・経験・思想・感性などが圧縮されて詰め込まれている。高度なインテリジェンスを持つ年輩の人々は“裏”まで読み込み、優れたものを享受する。大したインテリジェンスを持たない人間が逆立ちしても不可能なことを、普通に出来るのである。すなわち、インテリと“名作文学”の関係は、マンガオタクとマンガの関係と、同じことなのだ。そこに歴史の長短はあっても優劣は無い。
そこで年輩のインテリは、自分たちとオタクたちとの知性の差を引き合いに出して、「読んでいるものが劣るから知性も劣るのだ」ということを言ったりするが、何度も言うように知性の差は元から存在している。高度経済成長の右肩上がりの時代に青年時代を過ごした人間と、ロストジェネレーション以降の複雑怪奇な時代に青年時代を過ごした人間とでは、どだいスタートラインからして違うのだ。同じことをやっても同じようには作用しない。
ちなみに知性の差を引き合いに出すならば、「絶対的・圧倒的な差をここまで埋めたマンガの方が“名作文学”よりも優れている」という論理も成り立つ。くだらない論理だが、知性の差を引き合いに出す年輩の人々を黙らせるには丁度いい。

<私の個人的な意見>
ここまで語っておいて何だが、私は小説とマンガの優劣をつけるつもりは特に無い。そもそも小説といっても様々あるし、マンガも様々ある。それらを一括りにしてジャンルで優劣をつけるなど意味があるとは思えない。小説には小説にしか出来ないことがあるし、マンガにはマンガにしか出来ないことがある。そう思っている。
マンガの本質は重厚な文学か荒唐無稽な娯楽かという議論にも興味は無い。私のようなマンガ廃人にとって、その2つの境界は曖昧であり、大概のマンガは両方の要素を兼ね備えていると思っている。そして私の中でも、それらは矛盾なく同居している。全く毛色の違う作品を書けるのは、そういうことだ。
私の判断基準は今も昔も変わらない。面白いかどうか、感性に合うかどうかだ。長々と語って結論があまりにも単純明快すぎるかもしれないが、私のような愚昧な知性の持ち主が書く文章など、そんなものである。


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内 容 ニックネーム/日時
少年時代。テレビで、クラシックの指揮者が、一生懸命歌謡曲を理論的に批判し、会場の大人も深く頷いていた。
今では考えられないことだが、テレビで大まじめに語られていて、直感的に「これはおかしい」と思って見ていたのを覚えている。
クラシックと歌謡曲。どっちが優れているか?
ジャズとロックはどっちが最強か?
これは今ならほとんどの人がナンセンスと答えるだろう。
マンガ、小説、映画、ドラマ。この優劣も同じ。柔道と空手とどっちが強いかに似て、答えはない。
「マンガなんかくだらない」という大人は未だにいるし、そういう発言を後押しする取り巻きもいる。しかも聞いてみると、「マンガなんか読んだことがない」と。
ディペートなら秒殺されるだろう。
人生を変えるほどの感動的なアニメもあれば、得るものがない小説もある。逆もある。映画でもドラマでも小説でもマンガでも、キャラの魅力。面白いストーリー。メッセージ。
この辺を重視する。
大文豪が書いた名作を読み、全く意味がわからない。「君にはまだ早かったかな」というセリフには、確かにブレーンバスターを食らわせたくなる。
私は、読書が苦手な人でもわかる「わかりやすさ」を重んじる。
ブラックホーク
2011/02/19 16:14
お久しぶりのコメントで恐縮です。
私の尊敬する、スヌーピーの作者シュルツ氏は以下のように語っていたと思います。「漫画は文字と絵画が一体となった、芸術として大変優れたものである」
これには私は大賛成です。シュルツ氏も漫画が不当な扱いを受けていることに怒っていた一人だと思います。特に日本以外の国ではそういう傾向が顕著ですね。
それに関連して、書籍の売り上げの中に占める漫画の割合は、日本が突出して高いようですね。諸外国ではまだまだ「漫画は子供のためのもの」という意識が高いようです。
日本の漫画文化は世界に誇れる水準ですよね。
おっしゃる通り、名作文学には感動できないもの、沢山あります、私も。
個人にとって感動を与えてくれる漫画とただつまらないだけの「名作文学」と、
どちらが大切か・・・答えは明瞭ですね。
あ、もちろん「名作文学」を否定するわけではないのですよ。
「名作文学」を読んで感動する方も沢山いらっしゃるのでしょうし。
結局、個人の感性なんでしょうね。ただ、あたかも漫画に感動を覚える人は、文学に感動を覚える人より、下等な(言い過ぎかな)感性の持ち主だというこれまでの風潮には疑問符がつきますね。どっちが好きだっていいではないですか。
同じ芸術作品なのですから。
まぁ、小説も好きな私としては、昨今の日本文学の低調ぶりにはがっかりですが・・・下手な芥川賞受賞作より、フツーの漫画のほうがどれほど多くの人を感動させているのかな?なんて思っている昨今であります・・・
とちの木
2011/02/19 18:21
>ブラックホークさん
ろくにマンガを読まずに批判する人間はまだ多いようですね。文学に造詣が深いと自分では思い込んでいるので、「読まなくてもわかる」「どうせろくなものではない」「少し読んでみたがくだらなかった」「こんなものを読んでいる人間が日本を駄目にしているのだ」などと、関係ないことまで交えて、平気で上から目線で心をえぐってきます。そのくせ“名作文学”は全部最後まで読ませようとする。「原文で読むべき」というのも、もしかしたら、外国語などろくに出来ない・学べない環境で育ってきた人を傷つけているかもしれません。
“名作文学”を高く評価する人間が上から目線で偉そうにしていると、読む気を無くし、客観的には素晴らしい内容を含んでいる“名作文学”そのものまで嫌いになって批判的になってしまう・・・そんなことも起こっているでしょう。そのクラシックの指揮者も、歌謡曲を批判することで長期的にはクラシックをも貶めているということに気付いていないですね。
ジャンルが違うのは役割が違うから。1つのジャンルでは全ての人を感動させることは出来ないし、全ての人の感性に合うジャンルも無い。ところが、1つのジャンルに深く傾倒した人の中には、自分の扱っているジャンルに比べて他は劣っていると思い込む人もいるようです。学者に多いらしいですが。
ホークさんの文章は読みやすくてわかりやすいです。新聞を読んでも眩暈のする私ですが、ホークさんの小説やエッセイは楽しく読めますね。新聞なども読めないことはないのですが、読みにくいしわかりにくいし、腹の立つことが書いてあることも少なくないので、すっかり新聞嫌いになっています。
ネット上での文章の方が新聞や雑誌などよりも読みやすいということは多いですねー。
アッキー
2011/02/19 23:26
>とちの木さん
お久しぶりです。外国でもマンガは大流行していてオタクも増えているようですが、やはりまだまだ“子ども扱い”なのですね。外国の人とマンガを通じて意思疎通が出来るということがある一方で、低く評価されている現実もある・・・。一朝一夕にはいかないですね・・。
シュルツ氏の言う通り、マンガは「絵で読ませる」「字で見せる」などという技法も発達しており、優れたものだと思います。文字と絵画が一体化していることで、多くの情報が一気に頭に入るというメリットが挙げられますね。テレビとワープロ、電子計算機を一体化させてパソコンを生み出したように、混ぜることで、今までには出来なかったことが出来るようになったりする。技術の進歩でパソコンがインターネットという新しい力を手に入れたように、マンガも既存の文字と絵画の枠を越えて発達していっているように感じます。
文字と絵画の一体化は、漢字と仮名文字を同時に使用する日本ならではという話をどこかで聞いたことがあります。漢字にルビを打つというのは、マンガで言えば漢字が絵でルビがセリフなどの文字であるということらしいです。そういう意味でも非常に日本的な文化だと言えますね。
アッキー
2011/02/19 23:59
>とちの木さん
では“名作”と呼ばれる小説はどうか。もちろん優れたものも多いと思いますが、個人的には「○○賞」「××賞」などというものは胡散臭いです。これはマンガにも言えますが・・・賞を取った途端に内容が面白くなるわけでもないですよね。面白いものは賞を取る前から面白いし、賞を取ったからといって面白いとは限らない。ルールの明確な競技ならともかく、作家に与えられる賞というものは、要するに少数の審査員の好みで決まるわけですから。優れた小説なのに、ある審査員が変なケチをつけて賞を取れなかったという話もあるようです。
やはり最終的には個人の感性に行き着くと思います。マンガに感動する人間が文学に感動する人間より感性が劣ってるなどとは誰にも言えないと思っています。
アッキー
2011/02/19 23:59

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