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zoom RSS 思春期ポストモダンについて 〜アルカディアの天才児と“成人年齢”〜

<<   作成日時 : 2011/10/31 05:00   >>

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子供の頃は20歳を過ぎれば大人になるものだと思っていた。
ここでの“大人になる”というのは、精神的に大人になるという意味である。つまり、子供である今は未熟でも、大人になればしっかりするし、そうでなければならないと思っていたわけだ。
しかし、現実はどうだろうか。ろくに知識も教養も無く、会話も下手で、何かと浅薄さが露呈する。ろくに自己管理は出来ず、生活リズムは乱れ、あまり働かず、親元で障碍者年金を頼りに暮らしている。

長らく、この救いがたい状況は、自分が精神病であることが原因だと思っていた。今でも、最大の原因であるとは思っている。精神病にさえなっていなければ・・・と、何度も思ったし、今でも思っている。
しかし、どうやら唯一の原因ではない。そのことは無意識的にはずっと思っていたようだ。そして最近になって、ある本との出会いが私の意識を急速に明確化させた。

簡潔に言えば、精神病学と社会学の融合。
それは私や、同じく精神病の友人が試みてきたことでもある。

「思春期ポストモダン」
斎藤環・著
(幻冬舎)

文章の書き方という点では、以下のような点が優れている。
言い辛いような物事も曖昧にせずハッキリと述べているから、わかりやすくて読みやすい。
具体的かつ実践的で、活き活きとしている。また、冷静な視点で幅広く物事を観察している。
何よりも私が評価したいのは、その謙虚な姿勢である。内容面で言えば、認識不足・研究不足な面は多々あるが、それを補って余りある謙虚さがある。それは言葉遣いが丁寧だとかいう話ではない。
ハッキリと物を言いながら、断定的ではない。つまり、自分の主張に自信は持っているが、あくまで自分の考えであることを明示している。傲慢でもなく卑屈でもない、バランスの取れた書き方だと感じた。

内容方面で私の目を引いたのは、主に以下の5つだった。
・精神病学における「病因論的ドライブ」という概念
・「引き籠もり系」と「自分探し系」というモード
・いじめとPTSDに関する部分
・恒常性(ホメオスタシス)に関する部分
・成熟と成人年齢に関する部分



<病因論的ドライブ>

精神病の原因として、何が挙げられてきただろうか?
1つ目は遺伝的要因。いろいろなことが言われているが、未だ多くが闇の中の領域であり、要するに好き勝手に言えることだ。誠実な人間であれば、これについては慎重で、本書でも多くは語っていない。
2つ目は、脳への物理的ダメージ。事故で怪我を負ってから性格が歪んだという事例や、薬物中毒などだ。いわゆる精神病とは異なるかもしれないが、精神異常の括りということで一応入れておく。
3つ目はマクロな社会的要因。戦争が人の心に深刻なダメージを与えることは、近年では湾岸戦争やイラク戦争などで実証済みだろう。(帰還兵のPTSDや戦災孤児の精神疾患)
不況で生活が苦しくなり、安い給料で上司にパワハラを受けながら精神を病んでいく人もいる。それについては雨宮処凛さんの著書などに詳しい。(cf:「生きさせろ!」「プレカリアートの憂鬱」など)
こういった社会的な危機的状況は精神病の温床になる。・・・が、精神科医の中には「危機感が無いから価値観が迷走する。戦争(を肯定はしないが)のような危機的状況が訪れれば、ある種のサイコな問題は収まるのではないか」などとほざく糞馬鹿阿呆もいて、心底ゾッとする。“若者論”を振りかざし、上から目線で語り、何ら建設的な解決策を示せない。そんな無能の糞馬鹿どもを、斎藤環氏は痛烈に批判する。(もちろん私と違って上品に)
「若者は危機感が足りない」などと言う人間こそ、危機感が欠如している。自分は若者ではなく、十分に危機感を持っていると思い込んでいる。憂国の士を自称する、恥知らずの老害どもだ。
少し話が逸れたが、4つ目はミクロな社会的要因。いじめ、虐待、家庭不和、セクハラ、パワハラ、アカハラなどが挙げられるだろう。行き過ぎたエリート教育や、苛烈な受験競争を挙げてもいい。(もちろんエリート教育や受験競争そのものが悪いとは思わない。行き過ぎが良くないだけだ。)
私は、このうち「いじめ」に相当する。小中学校時代に、同級生数十人と教師数人に酷い虐めを受けたことが精神病の直接の原因であり、今でも姿と声が(自分の意思に反して)浮かんでくる。これを書いている今でもだ。
そして5つ目は、関係性が要因となるものだ。各要素のどこにも原因(病理)が存在しなくても、精神病は引き起こされる場合があるということを解明した点で、本書は実に優れていると言える。
これを斎藤氏は「病因論的ドライブ」と名付けた。「誰も悪くない」場合でも精神病が起こることを解明し、上記の4つを病因論的ドライブが増幅するパターンの存在も述べている。
私のケースで具体的に述べていこう。
小中学校時代、私の人権意識と周囲の(多くの)生徒の人権意識との間には、大きな差があった。私の人権意識は周囲から浮くほどに高かった。人権意識が高いことは素晴らしいことであるが、周囲から浮いたことが「病因論的ドライブ」すなわち関係性の病理と言える。私を虐めた連中の人権意識は、現代日本における小中学生の平均的なレベルだと見積もって大きな間違いは無いだろう。高い人権意識の持ち主が身近にいることで劣等感を覚え、それを排除しようとする方向へ動いたのだろう。教師も一緒になって私を虐めたということは、教師連中の人権意識も同程度に低劣だったのだろう。(反戦平和教育なんかやってたくせに。)
(ちなみに現在の私の人権意識は小中学校時代とは比べ物にならない低さなので、何かを期待しても無駄である)
周囲とは関心事も合わなかった。私の関心は、学問、読書、反戦平和。周囲の多くは、芸能、ファッション、コミュニケーション。これは、どちらが良い悪いとは言えない。ただ“違う”だけなのだ。
ただし、違うこと自体に限ってはの話だ。人数と腕力に物を言わせて、相手を無理やり自分の領域へ引き込もうとし、拒否すれば迫害する・・・それは許されるべきことではない。本来なら教師が止めるべきなのだが、その教師たちが率先して“私の方”を“説得”してくるから劣悪にも程がある。そもそも教師と生徒は力関係(持っている権限)が違うのだから、対等であるはずがない。実質上は説得ではなく、下卑た脅迫である。
(ちなみに私は今では芸能やファッション、コミュニケーションにも関心が高い。これらのカテゴリは小説を書く上で実に親和性が高いのだ。虐めを行うようなゲスどもには勿体無い。)
最後に、親との関係についても触れておこう。私の両親は、人生において得てきた知的財産を私に継承しようと努力してきた。このことは素晴らしい試みであると言える。子供時代の私も、それに応えようと努力し続けてきた。これも素晴らしいことだ。しかし、いじめでブレーキがかかり、大学に入った途端に精神病になり、今まで積み上げてきたものが砕け散った。両親の努力も、私の努力も、水の泡となったわけだ。
このショックは双方共に大変なものであり、私は“あるべき理想”とのギャップが膨らんでいくことを認識するごとに苦悶し、父親は今でも自分を責め続けている。ショックの少なかった母親と、逞しく育ってきた弟妹たちを中心に、何とか盛り返したが・・・本来はバリバリ働いていなければならないはずの人間が半ば引き籠もって趣味に興じているわけである。しかも精神病。そんな人間が間近にいるわけだから、どうも弟妹たちに悪影響を与えているようだ。かといって、今独立したら経済的にも精神的にも死ぬ。そして物理的にも死ぬ。



<「引き籠もり系」と「自分探し系」>

◎引き籠もり系・・・コミュニケーション能力は低く、友人の数は少なく、自己イメージは安定していて、孤独に強く、親和性の高いメディアはインターネット。
◎自分探し系・・・コミュニケーション能力は高く、友人の数は多く、自己イメージは不安定で、孤独に弱く、親和性の高いメディアは携帯電話。

これが、斎藤氏によるモード性格診断である。より詳しいことは本書に記されているが、この診断の優れているところは、自分のモードを認識することで自己分析が進み、今後の行動におけるロスが少なく出来るということだ。
斎藤氏が指摘する通り、大概の心理テストや性格診断などというものは当てにならない。その理由として私は、自己認識を進めるような診断を下していないからということを挙げる。
斎藤氏のモード性格診断は、使われている言葉が曖昧でなく、同時にグラデーション的であるので、自分で自分に的確な診断が下せる。それは自己認識を強烈に進める。つまり、ハッとする。
診断時間も早い。私と下の弟は引き籠もり系、上の弟は中間、妹は自分探し系(あくまで私見)だと、すぐに診断できる。上の弟だけ少し時間がかかった(しかも診断結果は両方のモードの良いとこ取り)が、まあ彼は一種の天才なので別格としておこう。あくまで私見だし、本人の自己診断では異なる結果になるかもしれない。



<いじめとPTSD>

小中学生時代、多くの生徒が私をストレスの捌け口にした。教師も学校を円滑に運営する為に、それを容認し、協力までした。私は心のゴミ箱にされた。精神的便所にされた。
その結果として数年後に私は精神病になった。些細なことでも気に病んで苛立ち、何も手につけられなくなってしまう。周囲の人間の声を煩わしく思ってしまう。
楽しみに興じている最中でも、幻覚や幻聴は容赦なく襲って来る。
どうやら私を日頃から苦しめている幻覚や幻聴は、いわゆる精神病性のものではないらしい。
誰が言ってるのかハッキリとわかるし、殆ど薬が効かない。
この話を聞くまでは、精神病の薬というのは心を落ち着かせる程度の作用しか無いものだとばかり思っていたが、どうやら“普通の幻聴”には通用するらしい。また一つ賢くなった。
しかし、極めて治りにくいという絶望が突きつけられている。
いじめられた体験は最も重いPTSDをもたらすことがあると書かれているが、人格の歪み、猜疑心、高い攻撃性は、私も自覚しているところだ。もはや治す気が起こらないが、その点については後述する。
私が最も印象に残ったのは、次の文である。

「少なくとも僕は、いじめ被害者の人間不信に匹敵するほど深いそれを、他の精神疾患であまりみたことがない。彼らをこの深い人間不信から救うにはどうしたらよいのか。この疑問に対しては、残念ながらいまもって明解な解答はない。さしあたりは、治療とともに、できるだけ親密でくつろいだ人間関係を重ねてもらうしかないのが実情だ。」

これを読んで私が思ったことは、人間の抱く絶望なんて大したことは無いな・・・ということだった。
確かに私は深い絶望を抱いているが、それが絶望の底であれば、これ以上堕ちる心配は無いということだ。
私より酷い目に遭っている人間が大勢いるのだから、私より深い絶望を抱いている人間も大勢いるだろう・・・と思っていたが、考えてみればそれは思い込みに過ぎない。体験の過酷さと絶望が比例するというデータは無い。
こんなことにも気付かず、随分と時間と労力を無駄にしたものだ。



<恒常性(ホメオスタシス)>

これが実に厄介だと思っている。
ろくに動けず、四六時中頭に霞がかかったような状態で、幻聴と幻覚に苦しめられ、神経性胃炎が慢性化し、情緒不安定で、わけのわからない恐怖や不安に苛まれる状態。
これが何年も何年も続いてきたので、もはやこの歪な状態で落ち着いてしまった。この嫌な状況を脳が覚えてしまい、いったん良くなっても再び元の木阿弥である。
人間の生存本能に“慣れる”というものがある。どんな劣悪な環境であっても、そこに順応しようとするわけだ。
なるほど、症状そのものは悪化しているが、大きな発作は起きなくなったし、周囲からは「良くなっている」と思われているようだ。そういう意味では“慣れる”ことにもメリットはあるわけだ。
しかし、今度は抜け出すのが困難になってくる。慣れたと言えば聞こえは良いが、要するに理想を捨てまくって廃人化したに過ぎない。かろうじてネットと仕事では人間らしさを保てるが、油断するとボロが出まくりである。
たとえ歪んだ状態でも、今の状態を続けようとする性質・・・ホメオスタシス。これは感覚的にも納得できてしまう。
今更“健常者”に戻ったところで、健常者の底辺に過ぎない。また病気になる可能性が高いし、ならなくても生きる意味が見出せない。精神病が治った途端に自殺なんて笑えない。



<成熟と成人年齢>

斎藤氏は、現代では若者の成人年齢は35歳だとしている。
言われてみれば、時代ごとに成人年齢は違う。かつては15歳が成人年齢だったこともある。(元服)
法律上では20歳から成人だが、社会学上では違う。成人年齢は社会の成熟度に左右されるのだ。
かつて15歳が成人年齢だった頃は、10代で子供が出来るのが当たり前で、20を過ぎれば行き後れなどという風潮が支配していた。現代の感覚からすれば、何と馬鹿馬鹿しい話だろうか。しかし当時は多くの人間が受け入れていたわけである。それだけ社会が未成熟で、平均寿命も短く、早く子供を残さないと死んでしまう状況だったのだ。
21世紀の今では死語になったが、25歳を過ぎた女性がクリスマスケーキに喩えられる風潮があった。何とも下劣で笑えない。反吐が出そうだ。
20世紀でも私の生きていた時代は、もはや糞豚野郎しか言わないような状況だったが、「20を過ぎれば〜」の時代があったことを考えれば、クリスマスケーキ論が大手を振って歩いていた時代もあったのだろう。吐きそう。
斎藤氏によれば、ベルリンの壁が崩壊した頃には「成人年齢は30歳」という話があったらしい。
大雑把に、戦前が15歳、47年時点で20歳、89年時点で30歳、07年時点(この本が発行された年)で35歳とすれば、だいたい4年で1歳ペースで成人年齢が上がっている計算になり、まあまあ信頼できる数値と言える。
もちろん感覚的には十分に納得できる数値だと思う。昔の50歳は老人だが、現代の50歳を見て老人とはとても思えない。個人差はあるが。
成人年齢が20歳と35歳なら、その比は4:7である。年齢を考えるとき、単純計算で7分の4倍して20歳成人基準に照らし合わせるとわかりやすい。
例えば、“男性の底辺の具体例”として次のようなものが挙げられたことがあった。→「30歳、無職、童貞」
やれやれである。多くは本人が自虐的に言ってるので、クリスマスケーキの比喩なんかよりは上品だが。
文章化すると、「30歳にもなって就職も出来ず嫁も子供もいない」ということになるだろう。どうも“家”至上主義的な匂いがするが、それは横へ置いて本題。
年齢を7分の4倍すると、「17歳、無職、童貞」となる。ここから受ける印象はどうだろうか。多くの人は「悲惨さが無くなった」と感じるのではないだろうか。
つまり社会成熟度に合わせるならば、「30歳、無職、童貞」などというスペックは、本来なら悲惨であってはならないはずである。そういう結論になるわけだ。
では、悲惨にしているのは何か。パッと思いつくのは、子孫を残すことを義務とする社会的圧力、性体験の有無による価値判断の行き過ぎ、異性の肉体への渇望・・・あたりか。
これは男性でも女性でも同じようなものだろう。性体験の有無については男女で逆になってるようだが。
それにしても、生煮えの生物学を持ち出してきて“生物の本能”だの“生殖の為の本能”だの語り散らす連中の気持ち悪いこと。挙句の果てには「子供を残さない人間に価値は無い」とまで言う始末。家畜の論理もいいところだ。
また話が横へ逸れた。・・・逆に、フィクションの少年少女などは驚くほどの成熟度である。(肉体的にも精神的にも)
これは年齢を4分の7倍してもらいたいところだ。そうすれば、魔法や超能力などのフィクション的な能力を除けば現実的なレベルになってくるはずだ。
本日完結した「壊滅都市」のコムザインでやってみよう。作中で彼は24歳。4分の7倍すれば42歳である。
どうだろうか。42歳であの貫禄なら納得できるのではないだろうか。
まだ読んでない人は、この機会に是非。(宣伝)



<才能と自己認識>

自己認識は成熟のキーワードの1つだと思う。
私は自分のことをダメ人間だと思っているが、漠然と「どうせ私は駄目」だと思っているわけではない。何が、どれだけ駄目なのか、逐一点検している。
残骸の山から砂金を掘り出すような作業だが、砂金は必ず存在する。私は自分のことはあまり信用できないが、人間が本来的に持っている能力は信用できる。つまり極論すれば、才能の無い人間はいない。
別に、これ自体は綺麗事でも救いでもない。人間は不幸になる方面に才能を発揮することが多いからだ。
だからこそ自己認識が必要で、自分の才能を見極めて、それがどのような作用をしているかを知る必要がある。
もちろん大概は、自分の駄目な部分がどのように不幸をもたらしているかを知るだけで終わる。そこで諦めても構わないと思う。私の場合は自虐が一種の救いなので続けられるが、自己認識なんてものは人それぞれに自分なりの方法でやればいいわけで、この方法が気に食わなくても別の方法を探せばいいだけだ。
・・・それで、現在のところ私には3つの才能が見つかっている。
・模倣(パクリ)の才
・混合(コラボ)の才
・虚飾(ハッタリ)の才
一見したところ、ろくでもない才能のようだが、これらを駆使して私は小説を書いてきた。
この3つは実によく噛み合う。それぞれの弱点をカバーし合っている。更には、私の薄暗い性質を活用するにまで至っている。小説を書いているうちに、そのように特化していったのだろう。
複合的に形成される“擬似オリジナリティー”と言うべきだろうか。
1つ1つのパーツはオリジナルではないが、組み立て方でオリジナリティーを出す。もちろん真のオリジナリティーではないので、やろうと思えば他の人でも出来るわけだが。(ただし私と同じものを読んでいる必要はある)
しかし、これが私の小説家としてのスタイルなのだと思う。“全ては面白い小説を書く為に”!




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内 容 ニックネーム/日時
詳しい分野でも謙虚に語る。これは大事ですね。たとえばイスラムについて訪ねられたら「私はイスラームの知識はないので答えられない」と答えるのが正しいと、とある準教授に教わりましたが、知ったかぶって的外れな解説を堂々とするニュースキャスターよりも、はるかに正しい答え方だと思います。
自信のある分野でも「私はこう思う」「私の個人的な意見ですが」と前置きするほうが、「こうなんですよ」よりは好感が持てます。
PTSD.これはわかります。私も十代のとき、テレビで衝撃的な映像を見てしまい、未だに忘れられません。テレビの映像で一生抜けないトラウマになるのだから、実体験だったらどうなるのか想像できません。
そういえば皆口に出していないだけで、東日本の大半は家がきしむだけで身構えます。でもこれは危機管理能力が高くなったのです。草原のアニマルはいつでも逃げられるように神経を研ぎ澄ましています。
それでも心的外傷について、あまりにも無頓着なのはテレビだと思います。それを見てどう感じるかを、あまり深く考えていない映像は結構流れます。
瞬時に目を背ける癖をつけています。釘付けにならないことです。十代のときは背けられずにトラウマになってしまった。
もちろん何を見たかは言えません。トラウマだから言葉にも出せない。
最終的な結論は「悔いなく生きる」ことです。3月に人はいつ旅立つかわからないという当たり前のことをリアルに実感してから、「後悔のない航海」がイコール「幸福」なのかと感じています。
ブラックホーク
2011/11/01 02:26
>ブラックホークさん
知らないことは知らないと、きちんと答える。わからないということを前提に、現時点での情報をもとにした自分の考えを述べる。それこそ知識人の正しい有り方ですよね。
知ったかぶって解説したり、ましてや人の無知を偉そうに責め立てたりして、実は自分の方がわかってないというのは最悪のパターン。私も気をつけなければ・・・。
テレビを観て嫌な気分になることは多いですね。割合だとネットより多いです。映像にしろ、発言にしろ、その日ずっと後に引くことも少なくありません。放送禁止用語の基準がわからないです。なるべくアニメ以外は観ないようにしています。アニメが絶対に大丈夫だとも言えないのですが。
釘付けにならないこと。重要ですね。私も気持ち的に一歩引いて観る癖がついているような気がします。気分が悪くなったら、その場の雰囲気など考えず引っ込むようにしています。また、引っ込めるように後ろで観る。
いつも自分の中に冷静な自分を持って、精神的にも危機管理意識を高くして生きる。それは謙虚な姿勢とも繋がりますね。傷つくことを恐れるというのは、人を傷つけることを恐れるということに通じていると思います。もちろん自己中は除くとして・・・。
精神病の発作に襲われたときによく思うのは、「人生の最後に、こんな状態で死にたくない」ということです。精神的な不安定さを少しでも埋めるような不摂生を繰り返しているので、突発的な災害や事故だけでなく、健康の方面でもいつ死ぬかわからない不安があります。後悔しない充実した日々を積み重ねていきたいですね。
アッキー
2011/11/01 19:03

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