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zoom RSS 大前田文七の理性 〜「神聖喜劇」より〜

<<   作成日時 : 2012/03/12 00:00   >>

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時代は第二次世界大戦中。東堂太郎は「自分はこの戦争に死すべき」という思いを抱いて軍隊に入る。
そこで彼は自らの記憶力と弁証法を武器に、生じる様々な問題に立ち向かっていく。
真面目な中に滑稽な魅力があり、同時に重いテーマを扱っている。それは「鈴木先生」とも通じるものがあり、両者を読み比べてみると凄く面白い。


大前田文七という男は、暴力的で、下品で、威圧的で、差別的である。そして、人殺しの悪党だ。
軍隊と聞いてイメージしやすい、野蛮な上官の典型例・・・と最初は思ったが、どうやら違うのである。
もちろん、「普段はワルだけど本当はイイ人」などという偽善臭が漂う人間などでは決して無い。死後の世界があれば間違いなく地獄行きの極悪人だ。
“違う”というのは、「悪党だけれども、どうやらそれだけの人間ではない」という意味である。

最も印象深かったのが「戦争とは殺して分捕ることである」というテーゼだ。
大前田は、戦争というものが如何に残虐で無慈悲で汚らしいものであるかを延々と語り、美化するくらいなら最初から戦争などしなければいいとまで言う。
右翼に侵略戦争を美化する人間が多いことは言うまでもないが、左翼にも革命戦争を美化する人間は多い。そんな連中をどこか信用できない私にとって、大前田の露骨な話こそが心に浸みる。

確かに侵略戦争と革命戦争では、その性質に根本的な差異が幾つかある。大雑把に言えば、儲けを増やす為に戦うか、人民の暮らしを良くする為に戦うかだ。
そして実際に、革命戦争は高いモラルと確固たる正義に基づいて戦われることが多い。
革命当時の中国共産党のモラルの高さや、在日・部落の人々がいたころの日本共産党のラディカルさ、キューバ革命軍の高い理想と実行力などは、21世紀の今でさえ尊敬に値するものである。

だが、それでも戦争であることを忘れてはならない。人は死んでいるのだ。
モラルが高ければ、死者が少なければ、それは美しい戦争なのだろうか?
侵略戦争は非人道的で、革命戦争は人道的なのだろうか?
ちなみに、革命戦争を人道的だと主張する人間は、あまり戦闘的でなく、偉そうに口だけ出し、理屈ぶってるだけの人間が多い印象がある。戦闘的に戦った人々を排斥するような輩まで存在する。

少なくとも私は、革命闘争で戦闘的な役割を果たした人間の口から、「あれは美しい戦いだった」などという言葉を聞いたことはない。戦闘的な役割を果たしたと勘違いしている人間の口から、それに近いものを聞いたことはあるが。

さて、話を「残酷な大前田のテーゼ」にまで戻すが・・・このテーゼは戦争の本質を鋭く捉えているだけでなく、更に重要な意味合いも含んでいる。
ここまで主に「殺す」の部分で話を広げてきたが、ここで「分捕る」の方に注目してみると、資本主義の本質というものが見えてくる。

そもそも貧富の差というのは、いつから発生したのだろうか?
現代では、生まれつき裕福な人間もいれば、生まれつき貧しい人間もいる。では、その財は何によってもたらされたのか? 前の世代も、その前の世代も、豊富な資金を元手に富を増やしている。
始まりは、いつだったのか。その疑問は長らく答が出ないままだった。

結論から言えば、奪い取ったのだ。要するに、強盗殺人が始まりである。
そしてそれは、奪い取るルールを決めて、違反する者を暴力で取り締まるという形に進化した。現代でも基本的にこの形態が利用されている。
これはマルクスが「資本論」で述べていたことだ。

資本主義は、儲けよう、儲けようとすることで、次の段階(帝国主義)に進む。
単純な話だが、儲けるには3つのものが必要だ。すなわち、人間、土地、資源である。
それらを得るには、どうすればいいのか? 倫理道徳を無視すれば、その手段として最も手軽なのが奪うことである。それが侵略戦争であり、帝国主義の論理である。
「分捕る」とは、侵略戦争・帝国主義の本質を突いている。

大前田文七とは何者なのだろうか?

その後も彼に注目し続けていると、あるときハッとして物語を振り返ったことがある。
そのときの発見に、私は愕然とした。
それまで私は彼のことを、「本質を突いたテーゼを述べることはあっても、基本的には野蛮な軍人」であると認識していた。それ自体が覆ったわけではない。この認識は正しい。
けれど、それだけではない。

ちゃんと話を聞いて理解し、あるいは理解しようと務め、曖昧なままに済まさず、徹底的に話し合う。
このスタイルは最初、東堂太郎だけのものかと思っていた。
しかし、そうではない。殆どの登場人物が多かれ少なかれ持ち合わせている性質なのだ。

大前田は、暴力で言論を捻じ伏せるということをしていなかった。
およそ軍隊における野蛮な上官というものは、言論を暴力で蹂躙するものではなかったのか?
このときの衝撃は凄まじかった。
もちろん、彼は体罰を加えるし、それは理不尽なことである。彼の人格についても擁護する気は無い。
だが・・・。

体罰を与えるということは、私が中学生の頃の教師も行っていた。私も重たい木製の棒で頭を殴られたことがある。
程度の軽重はあれど、戦後でも理不尽な暴力が振るわれているということである。
戦時中は酷かったが、現代だって酷い。程度がマシになったから喜ぶべきだとは、とても思えない。

そして、私が愕然としたのはここからだ。
直接的暴力の程度を除けば、中学時代の教師連中(全てではないが)は、人の話をまともに聞かず、理解しようともせず、曖昧なまま終わらせ、しこりを残していった。
彼らは犯罪者として裁かれることはないが、少なくとも大前田よりも品性が上等だとは決して思えない。

アフタヌーン連載中の「勇者ヴォグ・ランバ」では、「理性の無い者に敬意を払う必要は無い」というセリフが出てくる。
いかにも曲解されそうな言葉だし、実際に作中では殺人を肯定する言葉として使われていた。
だが、この言葉そのものが持つ意味を感じたとき、それまで解決できなかった問題が、あっさり解決した。
私は人間の価値判断で、“理性”を最も重視するのだということがわかった。

もちろん、単純に「理性のある人間=好き、理性の無い人間=嫌い」というものでもない。理性は最も重視する項目(の1つ)ではあるが、それが全てではない。
とはいえ、特に現実の人間の場合、割と単純に理性の有無で好き嫌いが分かれるということが多い。
少なくとも、「理性のない者に敬意を払う必要は無い」というスタンスには大賛成である。

私の話を理解しようともせずに、曖昧で後に尾を引くような終わらせ方をした教師連中に、敬意を払うべき理性など存在するのだろうか?
中学時代と述べたが、小学5年生のときの担任は、クラスメート全員を集めて私の吊るし上げを行ったこともある。
「敬意を払う必要は無い=迫害していい」ということではないが、この件に関して言えば、あれらの教師連中を殺すことに何の躊躇も無いし、あれらが生き続けていることこそ私の良心を折に触れて痛めつけているのだ。

ここで大前田である。彼は、下品で、野蛮で、差別的な暴力主義者である。
だが、彼には少なくとも、私が敬意を払うべき理性が存在している。
言論に対する姿勢ひとつ取ってもそうだが、他にも彼の“理性”を示すエピソードはある。彼は差別的な発言をしてしまったとき、しばしばその“失言”に気付いて、言い直したりするのだ。差別的な感覚は持っているが、差別を当然とは思っていない。完璧には程遠いのではあるが。

もちろん、「神聖喜劇」は物語である。たとえ事実を元にして描かれていても、戦時中の軍隊全てがこのような状態であったとは決して言えない。むしろ、理性の欠如した行いは普通に横行していただろう。それは作中でも多く出ているし、大前田として常に理性的ではない、むしろ野蛮だ。
それでも、人を殺す職業の人間が保持しうる理性を、人にモノを教える職業の人間が持ち合わせていないのは、おかしな話なのである。“教え子を再び戦場に送るな”というフレーズがあるが、理性の欠如した教育は、学校をミニマムな戦場にするということだ。

常に臨戦態勢でいなければ誇りを踏みにじられる。いつも万全の心構えなど出来るはずもなく、油断するとすぐさま酷い目に遭った。酷い目に遭ってから、自分が油断していたことに気付くのだ。
中学時代には、覚えている限りで命の危険と貞操の危険が1回ずつあった。
これで戦時中と異なるのは、せいぜい程度の差くらいなものである。
私などは幸運な方で、こうして無様に生き延びているが、世の中を見渡せば自殺やリンチ殺人など当たり前のように起こっている。それも、学校だけでなく。

何度も言うが、戦時中だけが酷いわけではない。
現代は戦時中より良いと言っても、最悪の状況に比べれば何だって良いに決まっている。
そこでの良し悪しにしても、せいぜい社会的なものである。虐め殺される本人にとっては、戦時中より良いとは言えないだろう。

たとえ暴力を受ける回数が結果的に増えたとしても、中学時代は大前田が担任の方がマシだったとさえ思える。
もちろん大前田も冬木に対して不当な取調べを行っていたわけで、教師として不適格なのは言うまでもないが。

そもそも、大前田文七は“ごく普通の人間”ではなかっただろうか?
この文章を書きながら、彼が何者かという答が見えてきた。

東堂は大前田を残虐な人でなしだと評している。それは正解だ。
だが、戦争とは残虐な人間が人を殺す場所ではない。普通の人間が残虐に人を殺す場所なのだ。
大前田は残虐だが、確実に残虐と言えるのは彼の行った行為であって、彼自身が“当時の軍人として”それほど残虐とは思えない。彼の言う通り、戦場では“みんながやる”のだ。

大前田は、一介の農民に過ぎない。職業軍人ではなく、徴収された兵隊だ。
自らの理性に従って“ごく普通の”考察をした結果、「戦争とは殺して分捕る」というテーゼが確立され、残虐な行為に及んだ。もしくは、テーゼの確立と行為の順序は逆であったかもしれない。その場合は、自らの行為によってテーゼを自覚したのだろう。
皮肉にも、彼は有能な軍人となった。その残虐性においても、技術的な能力もにおいても。

・・・だからといって、大前田が可哀想なわけではない。地獄へ堕ちるべき悪党には違いない。
ただ、それはそれとして、好き嫌いで言えば好きなのである。
(ちなみに彼以外のキャラでは、冬木、東堂、村崎あたりが好き)

彼について思考を巡らせるとき、思い浮かぶ人物が2人いる。
1人は死んだ祖父の上官で、“人斬り中尉”と呼ばれた、剣の達人だ。
人を殺しすぎて脳の病気にかかり、頭に水が溜まるようになったらしい。そうなると奇行を繰り返すようになり、定期的に頭から水を抜かなければならなかったようだ。

“人斬り”などと物騒な単語から連想されるのは、何十人、何百人と殺した残虐冷酷な人物だろう。
だが、実際に殺した人数は“4人”だそうだ。
この話を聞いたとき、「まともな人間というのは、“直接手を下せば”たった4人で気が狂ってしまうのか」と思った。
“たった4人”という私の表現は不謹慎ではあるが、どうしても殺したい人間が2桁いる私にとって、“4人”というのは少ない数だったのだ。

まともな脳は、4人でも“殺しすぎ”だと判断する。
もちろん殺人そのものが悪なので、1人でも殺してはならないわけだが・・・そんな倫理道徳を横へ置いておくとしても、この事実は衝撃的である。
憎悪による復讐殺人なら、何人殺しても発狂せずにいられるだろうか?
しかし、そんな保証はどこにも無い。それどころか、今の弱った脳では1人殺しても発狂する可能性だってある。

大前田との関連性の話に戻るが、要するに中尉は「4人を殺せば発狂するくらいには正常な感性を持っていた」ということになるだろう。
虐めで自殺に追い込んだ加害者が大して罪の意識を持っていないように、理性の無い人間は平気で人を殺せるし、あまり発狂もしない。だが、理性のある人間は違う。
これは私の勝手な想像だが、たとえ憎悪する相手であろうとも、“人殺しという行為そのもの”に理性が激しく反発するのではないだろうか。

まして、中尉が斬り殺したのは私怨など無い相手だっただろう。
たとえ私でも、私怨の無い相手を4人も殺したら発狂してもおかしくない。
中尉には、理性があった。理性を放棄せずに人を殺したから、狂ってしまったのだ。
それでもおそらく、理性は残り続けていたに違いない。

それで、大前田は発狂していなかっただろうか?
最後に彼は陸軍刑法違反の罪で監獄へ入るわけだが・・・。どうも突飛な印象を受けた。
まるでデウスエキスマキナ、または打ち切り。それに近い印象だった。

といっても、それに至るまでの伏線は確かにあり、デウスエキスマキナでも打ち切りでもなく、綿密な計算で書かれているということだろう。
それでも、やはり突飛な印象は拭いきれない。
これこそが彼の“発狂”であり、静かに進行していたのだとすれば・・・。

頭に少しずつ水が溜まり続け、少しずつ“発狂”が進行する中尉とイメージが重なってくるのだ。
もしかすると、大前田の頭の中にも水が溜まっているのかもしれない。

さて、私はマルクスについて触れたが、「神聖喜劇」の中でも“弁証法的唯物論”なるものが登場する。
何だか小難しいので、とりあえず“マルクス主義”とするが、これも大前田に絡んでくるのだ。
作中では専ら東堂に絡んでいるが、大前田の意味深なセリフを踏まえると、その意味も説明がつきそうなのである。

私はマルクス主義というものを、理論的な部分と感覚的な部分に分けて考えるようにしている。
当たり前の話だが、マルクス主義の理論を理解できるのは、ごく少数のインテリ、その中でも極めて高度な訓練を積むことが出来る僅かな人間だけだ。今の世界は教育格差や情報格差その他で、そういう風になっている。
だいたい「共産党宣言」など、私などは読むだけで頭が痛くなってくる。内容なんか頭に入ってこない。
和訳が下手すぎるというのもあるが、そもそも文章を読むこと自体が苦痛な人や、文字の読めない人は排除されるだろう。

多くの人々がマルクス主義の理論を理解しなければ共産主義革命が起こらないというのなら、いつまで経っても革命など起こらない。
ところが、現実に何度も共産主義革命は起こっているし、今でもキューバを中心に南米で共産主義モードだ。
そこには、多くの人々がマルクス主義の“感覚”を理解しているということが不可欠な要素としてある。
“ごく普通の”庶民が、普通に政治や経済について語っている。キューバというのは、そういう国だ。

ここで大前田に戻るが、彼もマルクス主義の“感覚”を、直感的に理解していたフシがある。
作中で東堂は弁証法的唯物論を用いていると指摘されたが、東堂の行ってきた「鈴木先生」的な論法が弁証法的だと言うのであれば、大前田を含む他の連中だって、弁証法的な実践を行っていると言えるのではないだろうか。

私は弁証法的な議論というものを直接言語化して説明することは出来ないが、東堂の行っていた議論と、他の兵士たちが行っていた議論は、大まかに見て同質のものではないかと判断した。
この判断の是非を置いておくにしても、大前田の謎の恫喝が残っている。

大前田は、最初から東堂を警戒していた。それは東堂の高学歴を妬んでのことだけではない。
作中で何人かは、東堂がマルクス主義者であることに気付いていた。大前田も、その1人なのだ。もちろん、マルクス主義という言葉そのものは知らなかっただろうが。
当時、マルクス主義者と言えば、それは非国民とか売国奴とかを意味した。帝国軍人として、そういった類である可能性がある人間が隊内に紛れ込んでいることは、恐怖や憎悪を湧き上がらせるに十分だっただろう。

だが?
東堂がマルクス主義者であるということに気付くには、少なくとも、理論か感覚のどちらか一方を自身の内に有していなければ、ほぼ不可能である。
“悪質な”転向者は、理論のみを有していて、感覚は帝国主義である。
東堂は理論と感覚の両方を有している。
では、大前田は?

彼がマルクス主義の理論を有していた可能性は、作中の描写からして、ほぼゼロである。
ならば、感覚的に理解していたとしか思えない。それも、もしかすると感覚的には東堂よりも深いかもしれない。
というのも、東堂の主要な感覚は“武士道”らしく、確かにマルキストらしからぬところがある。その最大のポイントが、「自分はこの戦争で死ぬべきだ」と考えているあたりだろう。

私は極左を自称しているが、右翼の中に私より左翼的な“感覚”を持つ者を見かけることが多くなった。
そうなってくると、どうも自分が左翼などではなく、“悪質な”転向者のように思えて仕方ない。もしも東堂が大前田の謎を解き明かしたら、そのときは私と同じような気分になるだろうか・・・?

それにしても、東堂と大前田が組めば最強だとか、どうしても想像してしまう。
考えてみてから気付いたが・・・言ってみれば“東堂”と“大前田”が手を組むことが革命なのである。
“東堂”と“冬木”が組んだだけでは革命は勝利しない。“大前田”と手を組まなければならない。




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内 容 ニックネーム/日時
この市長は支持できない。この知事は良い人。この知事は論外。この大臣はダメ。この評論家は喋るな。この教授は骨がある・・・。全部直感です。
それは自分の直感がほとんど当たるので、人物を見極めるとき、自分の直感、感性を大事にしています。
命の重みについては本当に難しいです。戦争は何の恨みもない人を殺すから被害者も加害者も地獄です。
しかし殺人事件は違う。死刑制度に反対でも、例えばサリン事件の主犯と実行犯は死刑以外にないという感情が動く。
あと、自殺3万人超が14年も続いているのに政治では解決できない。私から見れば弱者切捨の政策をごり押しすれば餓死と自殺はもっと増えると思う。
年間3万人は戦争です。そう感じない政治家が不思議。強引な例を語れば、もしも1日100人がウイルスで死んだら日本中大パニックです。
でも餓死や自殺は自分には関係ないと思ってしまう。
生命尊厳の哲学を広めるのは遠い道です。
イデオロギーよりも重いのが命。侍なら命の上に誇りを置く。だから誇りを傷つけられたら殺意が湧くのは普通なんです。
実行しないけれど、決して短気とは思わない。
哲学不在の政界なので、本当に大変な時代だと思います。
ブラックホーク
2012/03/12 00:43
>ブラックホークさん
どちらかといえば理論派な私ですが、かなり直感の占める割合も大きいと思います。自分に対して悪意があるかどうか、好感を持っているかどうか、何となくわかりますね。
理論というのも、直感やをベースにして組み立てられるものだと思います。無から有は生まれない。理論もゼロから作られるわけではない。
命の重さについては、私も完全な答が出せていません。
戦場で人を殺したことがある帰還兵に出会ったことがありますが、その人の命が軽いとは思えません。ずっしりと人生の重さを感じました。
逆に、私を虐めた連中の命は軽いと思います。死刑にして当然という感覚が消えたことはありません。
こういうことを考えるとき、人権の平等原則が根底にあります。他人の人権を蹂躙したのだから、それに応じて加害者の人権も制限されるという考え方・・・基本的に賛成です。
しかし、それでは私を虐めた人間を死刑にできるのかと言えば、そうではないということになります。いつもこの点で暗礁に乗り上げて、どうすればいいのかわからなくなります。ネガティブな感情に支配されます。
それでも、平等原則が間違っているとは思えません。少なくとも、一般的に語るときには確固たるベースになっていると思っています。
十数年間、毎年何万人もの人間が自殺に追い込まれている。かつて広島・長崎で、原爆で何十万人が殺されましたが、それと同じくらいの人間が死んでいるということになります。もしも現代日本に核が落とされたら大騒ぎになるはずですが、自殺で何十万人が死んでも当たり前のような空気がある。命が不平等に扱われていると感じます。
爆弾やウイルスと違って、底辺にいなければ大丈夫。そんな考えが透けて見えますが、このまま弱者を切り捨て続ければ“底辺”が増えるのは間違いないですね。
アッキー
2012/03/12 15:15
この力作にコメントするには『神聖喜劇』をもう一度読んでから、と考えていたら日数ばかりが過ぎてしかも読めてないし…。言い訳はやめにしましょう。
アッキーさんの指摘通り、大前田文七は極悪人なんですが、意外に筋の通った所があるんですよね。数の読み方についての意地悪な問題を出した時においても東堂が正しい答えを出したらちゃんと制裁をやめましたからね。
あれほど軍隊における秩序維持にこだわっていた彼がそれに反するおこないをしてしまったのはまったく意外なことです。しかし『レ・ミゼラブル』のジャヴェール警部のように、自分のよって立つ価値観を揺るがされた結果、これまでの自分ではあり得ない行動をとってしまうことはあります。一人称小説の形式を取っているこの小説の場合、大前田の内心は彼が外に表した言動で評価する以外ないのですが、静かに「水」がたまり続けていたというのは、非常に興味深い指摘です。大前田の言動の中にこうした結末を予告させる何かがあったような気もするのですが、今は思い出せません。

私が好きなキャラクターは、冬木、東堂、村崎はもちろん入っていて、それに生源寺と西条もです。西条は劇画ではなんとなくツンとした人物に描かれていますが、小説で読んだ限りではそんなイメージではなかったので…。あと、嫌いなのは、悪質転向者の片桐伍長と「理想主義者」の村上少尉です。それ以外の上官たちは大前田も含めて、嫌な奴ではあるけれどどこか憎めないところもあるなあという気がします。少なくとも、戦争さえなければ、ごく普通の生活人であったのだというような感じがしてきます。

この文章の最後の結論は実に意味深です。私にも「あいつとだけは手を組みたくない」と思うような人物がいますが、もしかしたら、その中に手を組むべき人がいるのかも…と、あらためて自分自身を見つめ直すことが必要だなと思いました。
すずな
2012/03/17 11:12
>すずなさん
大前田文七。「神聖喜劇」で一番好きなキャラクターかもしれません。極悪人だけど筋を通すというあたり、真っ先に思い浮かべたのは佐久間闇子でした(笑)。ええ、思い浮かべた2人のうち、もう1人は彼女なんです。佐久間を男にしたら、多分こんな感じ?
ジャヴェール警部の例、なるほどと思います。少なくとも、東堂が大前田について深い関心を持っていたように、大前田も東堂に大きな興味を抱いていたでしょうね。価値観を揺るがされたときに奇怪な行動を取ってしまうということは、私も覚えがあります。
そう言えば大前田の語っていたことの中で、軍隊内での様々な事件に関するものがありました。戦場で活躍していた“勇敢な”人間が、仲間の自殺した姿を見て怯え竦み上がるという話などを語っていましたが、それを大前田は「あれほど勇敢な人間が・・・人間とは不思議なものだ」という評価をしていたと思います。こういうことも語れる人間なのかと、読んだときは思いましたが、今にして思えば“予兆”でもあったのかもしれません。
アッキー
2012/03/17 20:38
実は私はマンガの方でこの作品を知ったのですが、小説での西条は違うイメージなんですか・・。いろいろとマンガでは描かれていないことも多いそうで、機会を見つけて小説の方も読んでみたいです。
そうそう、生源寺も良いキャラですよね。あまり目立って活躍していたイメージは無いのですが、ところどころで東堂を援護していたことが思い浮かんできます。
嫌いなキャラも共通していますねー。その2人のうちでも、私は特に村上少尉が嫌いです。彼の欺瞞的な“理想”が打ち砕かれた「殺して分捕る」のエピソードは痛快でした。やはり基本的に“喜劇”なんですよね。
ここでの大前田の態度が毅然としていて好きなんです。部下としての節度は守りつつも、「お前は戦場を知らないから“綺麗な戦争”などと言えるのだ」というメッセージが込められていたと思います。
それ以外では、戦争が無ければ普通の人間だった・・・その通りだと思います。嫌な奴だなあと思っていた吉原なども、最後で殊勝な面を見せていたことで少し見方が変わりました。

手を組みたくない人間とでも手を組まねばならないか。非情に難しい問題で、私の中でも結論が出ていません。
手を組みたくない人間の中には、片桐や村上のような連中もいるわけで、そういう感覚は大事にしなければと自分でも思っています。
そして客観的に手を組む必要性がある相手でも、実際に手を組むのは難しいですね。絶えず自分自身を見つめていく中でしか、具体的な結束の手段は見つからないのかもしれません。
アッキー
2012/03/17 20:39

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