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zoom RSS 時代の過渡期、多才な能力

<<   作成日時 : 2012/09/06 00:00   >>

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90年代の、あの空虚な時期を思い出すとき、記憶の光景がモノトーンのようになっている。もはや、あの頃は私にとって“過去”になりつつあるのだろうか。
そのことが、現在の新しい時代の流れと無関係ではないだろう。時代というのは連続的なものであるが、90年代と2010年代の今を比較すれば、明らかに違う。反原発運動ひとつ取っても、その盛り上がりは90年代や00年代とは比べ物にならない。
かつて20世紀初頭のロシアで、メンシェビキが主流だったソビエトが権力を握り、セクシーハゲレーニン率いるボリシェビキが更に革命を進めて大衆を獲得した。いわゆるロシア革命である。
それが全世界的に波及し、歴史を大きく前進させつつも多くの病理を残していくのだが・・・。1920年代30年代の日本にも、誘い受けマルクスやセクs・・・ゲフンゲフン、レーニンの思想を受け継いだ人々が活動していた。だが、それらの面々は軍部に抹殺されてしまう。幾らかの書物と僅かな後継者を残して、日本における1回目の“運動”は壊滅した。おそらくは日本において最も誠実で最も精緻な運動であっただろうが、早々に潰れたものは美化される傾向にあるので、純粋に内実と成果のみを評価するべきだろう。
2回目の盛り上がりが戦後直後だが、GHQが潰したというか、運動の代表が怯えたというか、ともかく一度は潰された。しかし余波は十分に残っていたようで、50年代や60年代に続く。60年代からは、直接知る人が現在でも多く生き残っていると思われる。次第に衰退していき、腐敗・分裂し、仲間(?)同士で殺し合うようになっていったわけだが、国鉄民営化が1つの焦点だったように思う。とどめ、と言っても過言ではないかもしれない。
それから長らく続く、火の消えたような時期が始まる。終身雇用が崩壊していき、結婚が難しくなり、少子高齢化・・・とか、そういう時代だ。私が子供時代を過ごしたのがその頃で、活動も未来が見えなかった。次のビッグウェーブは21世紀を待たねばならなかった。
2回目の面々のうち、年輩の面々は“旧左翼”と呼ばれ、60年代以降の生まれ(いわゆる“新人類”)を目安に、若手の層は“新左翼”と呼ばれた。21世紀の現在、これらがまとめて“旧”となっており、かつての“新左翼”が反原発運動に余計な横槍を入れるような時代になった。(マジで唖然とした・・・。)
今や“新”と呼べるのは、例えば労働と貧困の問題に取り組んでいる雨宮処凜さんのグループ、そして上に挙げたように反原発デモをやっている人々などだろう。
旧メンバーの中で、こうした流れに好意的かつ的確な分析を行い、毅然とした態度で未来を託しつつ、出来る限りで協力を惜しまない、“運動の利益を最優先に考え行動する者”が、ごく少数である事が残念でならない。あるいは、少数であっても存在することに喜ぶべきなのかもしれないが。

前置きはここまでにして本題に入るが、時代の過渡期に求められる能力というのは、どういうものだろうか?
そのヒントは、ルネッサンスにある。画家として紹介されることが多い、ルネッサンスの変人ども巨匠たちだが、他にも科学やら何やかんや、様々な分野に精通していた。
アカデミズムも時々は名言を残すようであり、「専門分野においてはエキスパートであれ、その他の分野についても議論が出来る程度には嗜め」というものがある。というのも、全く関係ないように見える事柄でも、その内実や考え方などが自分の専門分野に応用できるからである。能力には幅広い応用性があるのだ。そして、幅広い領域に触れることは人間関係を豊かにし、その結果として“真理の追究”がスムーズになる。真理は、具体的なところにあり、実践が多いほど真理に近づける。“オンリーワン”というのは、そういうことだろう。
形骸化した、くされアカデミズムでは、専門家は“すぐ隣”(例えば数学と物理学)で似たようなことをやっているのにも気付かない。まして畑違い(とされている)分野には殆ど見向きもしない。大学生の数学力低下が叫ばれて久しいが、あんなものは専門家を気取る学者連中の頭の硬さと狭量さに比べれば、全く取るに足らないことである。大学というのが本来は職業訓練施設ではなくアカデミズムの砦であることを考えれば、学者たちが狭量になれば、学生たちが自分の専門分野と関係ない(と思い込んでいる)科目を捨てるのは当然だろう。
ただし、狭量な専門家連中も害悪ばかりでもない。柔軟な発想力に欠けるから、新しいものを生み出す能力は皆無に近いが、一種の職人肌的なデータ蓄積能力は目を見張るものがある。それらの膨大なデータベースは、尊敬と感謝の念を込めて使わせていただくのがスジというものだろう。
膨大な蓄積なしには、誰も新しいものを生み出せない。かのメンデレじいさんメンデレーエフが元素周期表を考案した背景には、数十に及ぶ元素の発見と、それに伴う先人たちの労苦があった。メンデレーエフは凄いが、彼だけでは周期表は考案できなかったし、その完成(とりあえず92か103までを完成と呼ぶが)も後世の人々の努力なくしては不可能だったのだ。
ここ最近で思うことは、ルネッサンスの変態偉人たちは多才な能力を開発した天才メンバーだが、そういった性質は彼らだけではなく、広範な現象としてあったのではないかということだ。
ルネッサンスの巨人たちは、多才な能力を発揮した大勢の中での、最も優れた人々であったに過ぎない。ゆえに歴史に名を残した。そう考えるのが自然だと思う。
私は20世紀の間は、どちらかというと形骸化したアカデミズムのような、狭い枠内で知識を積み重ねていくタイプの人間だったように思う。それが21世紀からは、広範な物事を幅広く知ろうという方向へ転じていった。これは時代の流れと無縁ではない。時代が私の精神状況に影響を及ぼしているということが、相関関係として示されている。ますます時代は荒れ狂い、やや大袈裟に言えば歴史の過渡期を迎えている。そんな中で、私の幅広く知識を得たいという意欲も、ますます増大している。
形骸化したアカデミズムにも職人的な良さがあると書いたが、20世紀までの私が積み重ねてきた研鑽の数々は、こうして文章を書くにあたって極めて有用である。奇しくも、あるいは必然かもしれないが、蓄積+幅広さという、極めて良質な知識習得・能力開発の過程を辿ってきたようだ。もっとも、かつて獲得した能力の大半は精神病によって失われてしまい、他者の能力を借り受ける形で文章を書いているわけだが・・・。もしも時代の過渡期を迎えても相変わらずの頑固職人肌を続けていたら、それすらままならなかったに違いない。
こうした現象が私だけのものでないことは明らかである。時代の過渡期でなくても多才型人間は現れるが、それが広範な現象として、多くの人間が多才型となるには、過渡期を迎えなければならない。
私が雨宮処凜という人物を知ったとき、最初に抱いた印象は「何て幅広い感覚を持つ人なんだろう」というものだった。人を受け入れる幅が広く、私なら絶対無理なタイプとでも親しく付き合い、長所を発見する。それでいて本人の言うこと、「人見知りをし、人付き合いが苦手。他人に対して刺々しいところを改善したい。」である。だったら私なんかどうなるんだ?
しかしまあ、これは向上心に富んだユーモアなのだろう。洞爺湖サミットのときに間近で彼女を見かけたことがあるが、刺々しいのではなく、“恐いほどに頼もしい”という印象だったし・・・。
彼女への憧れが、私の多才型人間への方向性を、より強固なものにしたことは間違いない。時代の流れで多くの人間が多才型になる傾向があるといっても、流れだけが全てではない。個人差もあるし、時代も過渡期に入りかけたばかりだ。方向性を位置付け、また、より強固なものにしていくには、相応の出会い(人にしろ書物にしろ)が必要なのだろう。
では、時代が変わって、職人型人間の価値が消失したかといえば、そうではない。膨大なデータベースをもってサポートへ回るもよし、自らが豊富な知識を活用して多才型人間に変身していくもよし、選択肢は無尽蔵だ。
よく、若者には多くの可能性があると言われるが、蓄積の多い年輩の人々の方が更に多くの可能性があるに決まってるではないか。縁の下の力持ちとなるも、時代の寵児として躍り出るも、なかなか素敵なポジションだと思うのだが、いかがだろうか?
いずれにせよ、多くの若者から可能性が奪われていく社会で、「若者には無限の可能性がある」なんて言っても実感が湧かないのである。無限ではなく夢幻、決して掴むことの出来ない水月だ。
若者限定というのにも違和感があって、年齢に関係なく「人類には無限の可能性がある」と考えた方が現実的だ。
可能性があるというのなら、それを示す活動が。可能性が奪われているのなら、それを取り戻すか、あたらな可能性を得る活動が必要になってくる。抽象的な言葉だけで示せる可能性などどこにも無い。
多才型人間を目指すということは、可能性を増やすことであるとも言えるだろう。その具体的な実践としては、幅広いジャンルの本を読むとか、様々な音楽に触れるとか、月並みなことしか言えないが・・・。
いずれにせよ、私の場合は多才型人間を目指すことは二義的で、それが楽しいからということが真っ先に来る。そこに“時代の波に乗っているという大義名分”を付加したというあたりが、どうも真実に近そうだ。
ちなみに私は演歌を古臭いとは思わないし、歌謡曲をチャラいとは思わないし、アニメソングをオタク臭いとは思わない。軍歌でも民謡でも何でも、気に入った唄は繰り返し聴いて歌えるようにする。
何かの参考になれば幸いである。




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内 容 ニックネーム/日時
学生運動を体験した世代がよく口にした「今の若者は怒らない」「社会や政治に無関心」「無気力・無感動」という言葉。さすがに今、このセリフを吐く大人がいたとしたらシーラカンスを通り越してナントカザウルスでしょう。
反原発運動の盛り上がりは、確実に政治を動かしました。少し前は「原発ゼロ」なんて言っていなかった政府も、今は「脱原発依存」から「原発ゼロ」の方向性に変わっていきました。
しかし野党や新党の「原発ゼロ」というスローガンも鋭く見極める責務が国民にはあると思います。「原発ゼロ」が単なる選挙に勝つための言葉で、当選・大勝したあと平然と「原発推進派」に衣替えなんてことは十分に考えられる「似非庶民派」はいます。
見抜けずに騙されたら国民の責任でしょう。メディア戦略が上手い選挙屋の口車に乗ったら、それは民衆の敗北です。
私も貧困撲滅が生涯のテーマです。貧困を撲滅すれば、殺人・強盗だけでなく、いじめを含めた多くの犯罪が減少すると思います。貧困を撲滅して、孤立死ゼロ、自殺ゼロを本気で目指します。
いじめ対策をこれほどやっても悲劇があとを絶たないのは、やはり大人社会を根本的に解決しない限り、無理なのでは。他者を暴力的に排除する政治家が英雄視されている今、それを強く感じます。
まあ、ツイッターでその男の名前を検索すると、上から下まで批判しか出て来ない。ということはテレビが世論操作をしているだけなのか。だとすれば、テレビという恐竜を何とかしないといけない。手遅れにならないうちに。
「若者には無限の可能性がある」という言葉は、「人間には無限の可能性がある」と言い変えるのに賛成です。年齢は関係ない。二十歳の老人もいれば、八十の青年もいる。57歳で立ち上がって世界を変えた偉人もいます。
本当に乱世ですが、希望を持って生きたいと思います。


ブラックホーク
2012/09/06 18:09
>ブラックホークさん
早々に学生運動やマルクス主義に飛びついた人間の多くが、数十年後の今になって若者を非難していますね。しかし実際、無気力に見える若者は、物事を深く考えているからこそ、怒っても空回りすることを知っている。関心があるからこそ軽々しく動かない・動けない人も多いでしょう。
流石に激動と危機が深まってきた今、若者への嘆きも多少は減ってきた印象がありますが・・・代わりに「警察と仲良くするのはけしからん」だのと、反原発デモに文句をつけたりする連中がいて困りもの。警察が嫌いな私でも、そういう文句の付け方はおかしいだろうと思いました。
推進派の調査で国民の過半数が原発ゼロを望む。こんな事態は今まで何十年も無かったことで、それを実現した面々には素直に敬意を表するべきであり、警察と親和的であることで苦言を呈するのは礼儀を欠いていると思います。
アッキー
2012/09/06 22:32
反原発の気運が、かつてないほど高まっていますが、確かに安心は出来ないですね。政府は2030年代とか2050年代に原発ゼロなどと言っていますが、いったん矛を収めさせておいて後でひっくり返そうという魂胆が見え見えです。選挙で反対派を当選させようという動きもあるようですが、むしろ現時点で賛成派の議員まで反対派に鞍替えせざるを得ない状況まで押し込んで、一気に廃絶まで行かなければならないでしょう。人民には、それが出来るくらいの力は十分あると確信しています。十数万は、まだまだ発展の初期だと感じます。
あらゆる理不尽は根底で繋がっていて、反原発運動でも、貧困ゆえに原発で働かざるを得ない人・被災地に留まらざるを得ない人々の中には、「反原発運動は金銭的余裕のある人々の運動だ」と、冷ややかに呟く人もいると聞きます。貧困を撲滅することで、こういった人々が反対派に加わっていけば、凄く頼もしいですね。
私も、立ち上がるのに遅いことはないと思っています。行き着けの碁会所では、「五十六十花ならつぼみ」という格言が壁に貼ってあって、実際に身近では60を過ぎてからますます元気になっている人がいたりして、私も負けてはいられないです。
アッキー
2012/09/06 22:32
ルビデ「そうだ、人間とは可能性の塊だ。年齢、性別、信条、門地、あらゆる事柄に関係なく、悪魔をも打ち負かす可能性を秘めている。だから人間は恐ろしい。」
白龍「多才な能力…マルチプル・タロニスさんを思い出しました。」
千花 白龍
2012/09/06 22:48
>千花白龍さん
悪魔の方が人間の才能をわかっているかもしれませんね。マルチプル・タロニスの才能を最も理解していたのも、“デビルズ”と呼ばれたノットー・リ・アースでした。
マルチ君は、能力の種類も使い方も多彩ですね。

佐久間「再登場マダー?」
アッキー「まだですねぇ。」
アッキー
2012/09/07 02:01

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