佐久間闇子と奇妙な世界

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zoom RSS さぁて、がんばるか

<<   作成日時 : 2013/07/11 00:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 10

最近どうも、マルクス主義者が信用できない。
マルクス主義が、ではなく、主義者が、である。
信用できないというよりは、萎えると言った方が正しいだろうか。
それはどうやら、私だけが抱いている感覚でもないようだ。

「学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD」に、以下のようなセリフがある。
“確かに左翼は設定マニアで悪い病気だ。極右の人種差別主義と同じくらいに悪い病気だよ。”

最初は殺意が湧くほどに憤慨した。
私が今より頭ぐしゃぐしゃだった頃があった。それこそブログを始めた頃よりも、ずっと酷い状態だった頃があった。
恐慌(パニック発作)と沈滞(希死念慮)を繰り返しながら、身体感覚も歪み、心休まる日が無かった。(今でもあんまり無いが)
そんな状態で、思考力や根性など様々な能力がボロボロに朽ち果てていた。精神病になる前の自分と比較して、別人、あるいは生死を分かつくらいの差異があった。
そんな私が、かろうじて正気らしきものを取り戻し、今も何とか正気が半分を超えている程度の日常を保てているのは、マルクス主義を吹き込まれたおかげだったのだ。
マルクス主義に出会ってなければ、このブログも開かれることなく、私は正真正銘廃人となって朽ち果てていたに違いない。
だからこそ、上記のセリフは許しがたいものであった。“病気”という言い方も、精神病者の私にとっては看過しがたいものだった。

ところが、このセリフに続けて、更に考えさせるセリフがあった。
”お袋の同僚に、いつまでも左翼活動やってるのがいてさ。学校で起きた苛めは見て見ぬフリするような反戦平和主義者様だった・・・。”

これはまさに、私が日頃から感じていたことそのものだ。
自分の思っていたことを言語化されて、いかに自分が怒りと悔しさと不信感で溢れていたかを自覚させられた。自分が革命から疎外されていることに、私も見て見ぬフリをしていたのだ。
となると、前のセリフに対する評価も少し修正する必要が出てくるだろう。
マルクス主義に対するハンパな理解や、精神病者に対する無神経の分は差し引くとしても、そこに“左翼”に対する強烈な不信感(当然のことだ!)を発見せずにはいられない。
そして同時に、「鈴木先生」のワンシーンを思い出した。

選挙演説のときの、クライマックスである。
“岡田先生は・・・いつも国歌斉唱の時、起立もしなければ歌いもしませんけれど・・・あれはOKなんですか?”

意外だったのだ。
どちらかというと、ここで出てくる岡田先生というのは、どう考えても左翼的なキャラではなかったからだ。
むしろ、斉唱を強制する方が似合っている。このシーンで、このセリフの前に、そのような発言もあった。
とても斉唱に抗うキャラとは思えない・・・。最初に読んだときなどは、作者が右翼だから、左翼を貶める意図を以って描いたのだろうかと疑った。(その後この問題は作中で扱われていない)

確かに、これら2つの作品の作者は、ほぼ間違いなく右翼であろう。そういった描写やセリフが幾つか散見する。
しかし、だからといって、根も葉もないデタラメを述べているわけではない。それどころか、事実を鋭く抉り出している。
実際この手の教師は存在するのだ。そのことを失念していたことこそ意外だったが、それだけ思い出したくない過去なのだろう。私が小学生の頃、日教組の組員で反戦平和活動にも協力していた教師に、酷い目に遭わされたことがあった。教壇に立たされて、いじめの加害者含むクラスメート全員と、“話し合い”をさせられたのだ。
とても“話し合い”などではない。一方的なものだった。自分の意見を拾ってくれる者は、その教師を含め皆無で、多数の声に潰される。そんな“話し合い”だった。
この教師は、委員に立候補しない生徒を立たせて、その理由を言わせ、何かに立候補するまで座らせないというゴミ教師だった。
“教え子を再び戦場に送るな”というのが日教組のスローガンだそうだが、教室を戦場にして何ほざいてやがる。

こういった無神経なゴミは、左翼の中にも存在する。
そういう奴に、凄く嫌な思いをさせられた。露骨に見下され、そのことは何年も経った今でも時折思い出して吐き気や眩暈を起こさせる。
しかし私が怒っているのは、悔しいのは、それだけではない。
そういうゴミを「ああいう人たちを仲間とは思ってない」と言う人もまた、私を軽んじているのだ。
無神経なゴミが組織にいるだけで、どれほど私が精神的苦痛を覚えているのか、全くわかっていない。わかっていると口では言うが、実際その人を排除しにかからない。
排除する機会を狙っていると、次に衝突するときは側にいて排除すると、そんなことを言うが、それなら何故、今すぐにでも排除しないのか?
その理由は、排除することで発生するデメリットを危惧しているからである。簡潔に言えば、無闇に人を排除することは、組織内を息苦しくさせ、雰囲気を悪くし、分裂を招く。だから、“相当のこと”が無ければ“仲間”を排除してはならないというのである。
なるほど、それは私も理解できる。理解できるし、納得も出来る。小説にも取り入れているくらいだ。
しかし同時に思うのは、それだけのデメリットを払う価値を、その組織の面々は私に見出していないということだ。
私にとっては既に“相当のこと”なのだが、彼らにとっては違うらしい。そこは納得しがたいものだった。
軽んじられるだけの実力しか持たない私が悪いのだろうが、それ以来、その組織の集会には参加していない。
その前に所属していた組織でも、同じようなことがあった。
軽んじられる。人格は尊重しても、意見が軽んじられる。
なるほど、これでは内ゲバ(仲間同士で決裂して暴力)が起こるのも当然なことだ。
どうして内ゲバが起こったのかと思う人には、どうしてわからないのかと問いかけたい。
軽んじられることは、それが実力的に当然とはいえ、中々つらい。

しかし、その程度なら、まだ耐えられる範疇ではあった。本当は耐えられないが、耐えてみせようと思えた。
しかし、ここ数ヶ月のことである。
長年、私を苛立たせてきた奴と、ついに決裂した。(念の為に言うと、実生活での話である。ネットの話ではない)
そのゴミにも死ぬほどムカついている(本当に自律神経失調症で呼吸困難に陥り死にそうになった)が、周囲の対応も納得いかない。
無神経な発言を繰り返し、私の誠実な対応や献身に後ろ足で砂をかけるような真似をして、のうのうと生きている。
そんな奴に対して周囲は、一言で言うと“大目に見ている”のだ。
そして、そうしたことを私にも要求する。せめて二度と会わないようにしたいという、それだけの思いも踏み躙られた。それも、とても大事な日に、だ。
わかってるとか、理解しているとか、何か同情するような言葉とか、そんなものは口先だけである。
精神病のことなど、何もわかっていない。
なまじシビアな修羅場(それこそ切った張ったのような)を潜り抜けてきて、激しい苦痛や負の感情も味わってきたから、精神病者の苦しみも“わかってる”気になるのだろうが、感覚的なものは欠落している。
私が経験している苦痛など、彼らにとっては取るに足らないことなのだ。いじめられて苦しんでるとか、その後遺症が抜けきれずに苦しんでるとか、そんなことは二の次でしかない。
同情する素振りや、時には怒りを見せたりするが、その度合い・熱意が全く違う。
先程の例を持ち出せば、反戦平和活動ほどには、いじめに熱意を入れてない。本気が感じられない。
どうしても熱量に圧倒的な差がある。激しい温度差を感じる。私がキレたときこそ真面目に対応するが、忘れた頃に同じことを繰り返す。私が苦しみながら、心を平常に持っていった努力を、一瞬で駄目にする。
とてつもなく危うい均衡で精神状態を保っているということを、どうも彼らは忘れているようだ。
私の精神病の症状は、18歳のときから全く良くなっていない。かろうじて1日5錠の薬とマルクス主義が症状を和らげている状態で、マルクス主義者への不信感が募れば容易に廃人寸前の状態まで戻ってしまう。

もう嫌だ。たくさんだ。
心底だるい。疲れた。
今になって右翼に転向するような筋の通らないことはしないし、アンチ革命論など唱える気も無いが、彼らの唱える共産主義革命には、もう萎えた。やる気が起こらないどころではない。愛想が尽きた。
確かに彼らはシビアな修羅場を潜り抜けてきた“本物”で、私は“いかれた偽物”なのだろうが、私の価値あるいは私が高く評価するものの価値を認めない・切り捨てる“本物”などに、こっちとしても用は無いのである。

それでは革命を諦めるのかというと、そうでもない。それが出来るくらいなら、とっくに革命など諦めている。
結局のところ、世の中が“良く”変わらなければ耐えられないところまで、精神の危機は深化しているのだ。
それが精神病になって以降の、革命の動機であり、どうしようもなく“革命”は心にこびりついている。
子供の頃と違って、大志から革命運動やってるわけではない。自分の利益の為だ。
法曹界に“疑わしきは被告人の利益に”という言葉があるように、左翼には“迷ったときは革命の利益に”という言葉があるが、革命の利益と自分の利益が相容れない人間は、どうしたらいいのだろうか?
子供の頃なら多少の不利益など志で十二分にカバーできる強さがあったが、そんなものは今は無い。
相容れないなら、さっさと革命から手を引けばいいのだろうが、それが出来る人間が羨ましい。社会を変えなくても大丈夫な人なのだから。皮肉ではない。皮肉なら良かった。革命から手を引ける人間が心底羨ましい自分が、情けなくて仕方ない。

私の感覚では、共産主義革命などというものは、百年の昔に済ませておくべきことだ。
たかがプロレタリア独裁ごときに血道をあげている人を見ると、その意識の古さに眩暈すら覚える。
もっと色々やるべきことがあるんじゃないのか?
溜め込んだ夏休みの宿題が10月になっても終わってない気分だ。2学期の勉強や文化祭があるというのに。
文化祭そっちのけで夏休みの宿題を延々とやり続ける、この虚しさ。

思い出すのは、朝松健氏の言葉だ。

(以下、引用)

脳にインフルエンザウイルスが侵入。手術のため、わたしの頭蓋骨の一部が切除された体験だ。
頭皮と膜一枚のみで剥き出しとなった脳を保護するため、医師はヘッドギアをわたしに装着した。
折りしも一九九五年。かのオウム真理教事件のあった年である。
ステッキをついて外出し、喫茶店で編集者と打ちあわせをするヘッドギア姿のわたしに、心ない人からの嘲けりが投げられた。
「あっ、オウムだ!」
わたしはそんな時、必ずヘッドギアを外し、一部が窪んだ坊主頭を見せつけてやったものだ。(ほとんどヤケクソな気持ちで)
あるいはステッキ使用がなくなって、エスカレーターの右側にへばり付いている時(わたしは左手と左足が不自由である)、後方より駆けてきた人々の音たかい舌打ち。
それは現在でも浴びせられる。
医学はすでに遺伝子を操作し、脳のメカニズムさえきわめようとしているというのに、それを使う人間どもの、なんという無神経。なんという意識の古さ。これと同じ苛立ちを『人獣細工』で感じていた。

(以上、引用)

単に障碍者の“相憐れむ”感覚に留まらず、「これだ、この苛立ちなんだ、私が日頃から感じていたものは!」と膝を叩かせるくだりだった。
そして「鈴木先生」で何度も散見するテーマに、やはり同様の苛立ちが感じられる。
苛立っているし、悔しいのだ。
世界の微細な構造や宇宙の歴史までわかりかけている現代、それら最新科学の知見を取り込んで進化したマルクス主義は、(拙劣な私の意識から見てだが)究極の学問と言って過言ではない。
しかし、それを扱う人間の意識は、(私自身も含め)どうしようもなく前時代的である。
人に苛立つときは、必ず自分にも苛立ち、いっそう苛立ちが増幅される。苛立たせた人を罰せられない。それどころか讃美や擁護の声が聞こえてくる。その度に、呼吸が危うくなる、手足の感覚がおかしくなる。
希望は戦争だと言うほど絶望してないが、この苛立ちは絶望よりタチが悪いところがある。
絶望に浸ると、楽と言うとニュアンスが違うが、澄んだ安定感がある。暗い海を見ているような感覚だ。
やり切れない寂しさが胸を刺すが、海に浮かんでいるゴミや汚れは見えない・・・そういうものが見えてしまうと、苛立ちが加速して仕方ない。

最初の話に戻るが、左翼への不信感を示すのに最も相応しい書物は何か?
そう問われたら、私は「資本論」や「共産党宣言」などの、“和訳”を挙げる。
元になっているドイツ語の書物や、フランス語に訳されたものなどは、“庶民が読めることを基準にしている”のだ。
ところが日本語のマルクス書籍は読みにくい。そのせいで、どれほど強烈な不信感をバラ撒いたか、想像するだに恐ろしい。
何の為に書物にしたのか。人間が直に伝えるだけでは必ず起こる不備を、少しでも補う為ではないのか。それが逆に、理解しにくいイメージを与え、人を知的に見下す凶器となる・・・そこから発生する不幸の数々。
まったく、訳した奴は死んで詫びろと言いたくなる。
そういった不幸を人間の対話で覆せると楽観している連中には呆れるほかない。いったん染み付いたイメージ、不信感は、そう簡単に拭えるものではない。左翼バッシングが、いとも容易く成果を挙げるのは何故かと考えたとき、それだけ左翼に対する不信感が根強いのだと私は考える。

「蟹工船」の扱いにも、私は不信感を抱いている。
この小説は面白いし、マンガ化された中では藤生ゴオ氏の描いたものがオススメだが、その扱いが、つまり左翼の「蟹工船」の扱い方が気に入らない。
一体全体、この小説を“革命のバイブル”として高らかに持ち上げる神経とは何なのだろうか?
私が「蟹工船」で最も印象に残っているのは、最初の方で、男たちが物売りの女に下品なからかいを投げかけるシーンである。
あらすじは聞いていたが、やはり実際に読むと印象が違ってくる。このからかいの時点で、私は労働者を酷使する男に対して、心底からの怒りを抱けなくなってしまった。
「蟹工船」を革命バイブルとして高く評価している人に言わせれば、そういった下品で野卑な人々が、やむにやまれない思いから、ひとつのきっかけを元にして団結していくのが素晴らしいのだということだが・・・その評価は理解できるとしても、納得は半分しか出来ない。
確かに、最初から上品な人間ばかりを集めても革命など出来ない。せいぜいが選民である。だから、最初は駄目な人間が戦いの中で優れた人間に成長していくのが素晴らしいのだと・・・その理屈はわかる。
しかし、その中で傷つけられた人間は、放っちらかしなのか?
そして同時に、“オトコの革命”であるということを強く感じる。
「蟹工船」を“革命のバイブルとして”読んだとき、私が感じるのは、ともすれば男性労働者の逞しさや力強さを讃美し、女性労働者を露骨に脇役扱いする、封建的でマッチョな思想である。
女性を召使いにして、弱い男性を見下して、“強い男”が大きな顔して革命やろうというのだ。主役と脇役が明確に分けられ、カタルシスを得る人間と割を食う人間が分けられている。
「蟹工船」は現代の労働現場・労働運動と通じるものがあると評価する人がいるが、それは半分も正しくない。
女性を排除した、せいぜい“華を添える”脇役でしかない「蟹工船」は、革命のバイブルとしては古すぎて話しにならない。戦前こそ、作者が殺されるほどのものであったのだろうが、今となっては都知事でさえ“女々しく”見えるほどの酷いマッチョさである。はっきり言って、作者が殺されたから革命教本になってるとしか思えない。

ここで考えるに、「蟹工船」ブームを革命ブームと捉えるのは、間違いだと断じることこそ出来ないにしても、いささか早計であるように思う。評価のピントがズレていると感じる。
左翼の識者は「蟹工船」を、小説としては拙劣だが革命の教本として優れている、と評価する。
しかし、私は全く逆だと思う。
革命教本としては古臭いが、読み物としては面白い。読み物として言うならば、前述の下品さなど問題にならない(と私は感じる)。
いったい、どれほどの若者が、「蟹工船」を革命教本だという意識で読んでいるのだろうか。そういう人は、ごく少数か、もしくは“マッチョな革命思想”に共感した人々ではないだろうか?
話を戻すが、小説として拙劣だという評価を疑いもしないから、「蟹工船」ブームの評価がブレるのだと思う。
おそらく「蟹工船」を読んでいる若者の多くは、“読み物として”読んでいるのではないだろうか?
描写が不足だの何だのと、小説として拙劣なところを挙げ連ねる識者たちは、識者としての感覚で物を言っている。彼らが拙劣だと思うところを、私は特に拙劣だとは思わない。そういう“書き方”だと思ったのだ。
もっと言えば、私は「蟹工船」を読んだとき、劇で観たいと思ったのだ。“そういう書き方”なのだと捉えた。あくまで私の感覚だが、それに近いマンガ版(特に藤生ゴオ版)はオススメである。
そもそも私は、小説の上手い・下手というのが、あまり理解できない。上手い文章が読みたければ、新聞を読んでいる。小説に求めているのは、心にまつわる何がしかだ。
読み物として読む場合(というか、それが本来の読み方なのだと思うが)、私にとってマッチョさというのは逆に面白さと結びついてくる。例えば「鋼の錬金術師」はマッチョな思想で描かれているが、だからこそ面白いと思うのだ。マッチョさを排除したら、面白さが減る。

話を“オトコの革命”に戻すが、大概の革命において、主役は強い男で、女と弱い男は脇役である。
マルクス主義、マルクス・レーニン主義と言うが、彼らを支えた妻の名前はどこへいったのだろう。
もっとも、エンゲルスの名前も入っていない(マルクス・エンゲルス主義という言い方は滅多に聞かない)ので、それだけで女性差別だと断ずるのは早計だろう。
しかし実際、強い男が主体となって、女は“献身的に”男を支える構図になっている。
それを否定するものではないし、嫌いでもないが、それが強固な枠になっているのは嫌いだ。気に入らない。
どこを見渡しても、オトコオトコオトコ・・・BL的には素材の宝庫だが、残念ながらゲイもまた革命から排除されやすい、少なくとも“オトコの革命”からは排除される存在のようだ。
ゲイもまた、強い男が主体となって女が支える構図を、破壊する存在である。ゆえに、この構図を愛してやまない人々にとっては、ゲイはどうしても生理的に受け付けない存在となる。細かいところではまだ幾つかあるが、概ねの理由はそういうものだろう。
かつて私は、組織内でキューバでのゲイ差別について論じようとしたことがあったが、「それは米国のバッシングの手口だ」と無下に切り捨てられた。そのときは、シビアな戦いの中では、私が重きを置いていることは切り捨てられるんだなぁと思ったが、切り捨てた人が男性であったことを考えると、ゲイに対する差別感情もあったのかもしれない。

同性愛に対する差別感情は、男性だけのものではない。
同じ組織で、やはり同性愛に対して嫌悪を顕した女性がいた。それも別に、性的なことを語ったわけでもない。とあるSFで、女性ばかりの星があるという“設定”を語ったとき、「気持ち悪い」と言われた。
そのときは、ひたすら悲しかった。
だいぶ後になって、ようやく「この人とは共に戦うに値しない」と考えられるようになった。
しかし、である。その人のことは、組織の人々は、共闘に値する仲間だと言うのだ。
私に言わせれば、同じ口で「仲間だと思ってない」と言われた人と、ちっとも違いが見出せない。
無自覚なのだろうが、自覚したところで大差ない。根底に嫌悪があれば、どうしても言動に滲み出る。

私はバイセクシャルで、同性に性的な目を向ける場合でも同性愛者とは多少の違いはあるだろうが・・・ともかく、この手の嫌悪に耐えられない。吐き気がする。
たとえ冗談でも同性愛を否定するような言動は心に深く刺さるし、棘が抜けても傷が治らない。
正直に言って、同性愛を嫌悪する人間を、私は共に戦うに値しないと考えている。
同性愛を嫌悪しながら革命やるなら、お前らで勝手にやってくれ。私は関与しないから・・・それくらいのことを常に思っている。
あちこちで垂れ流される毒を浴びるうちに、かつては仲間だと思っていた人にも嫌気が差してきた。
そういうことは何度も言ってきたつもりだったが、生来の遠慮がちな言い方が災いしているのか、ちっとも伝わっていないようだ。
いや、言い方の問題ではない。どんな言い方をしても、聞き入れてもらえないなら同じことだ。

組織の機関紙は、なるほど、世界情勢の緻密な分析、運動の焦点と勇ましいスローガン、それからコラムなどもあり、それなりに優れたものに仕上がっているかもしれない。だが、そこに流れる感情の渦は、どうにも無味乾燥なもので、砂を食んでいるように感じるときがある。
頭ぐしゃぐしゃになるような緊迫感というか、切迫感というか、危機感が見受けられない。悪い意味で“お上品”というか、テーブルマナーを説かれている間にステーキが冷めてしまう感覚なのだ。
革命が現状維持マイナスアルファ程度でも、大被害を食い止められて喜ぶような人々が、(極端に言えば)お気楽に書いてるとしか思えない。
現状維持プラスアルファで、ようやくアルファ分だけ喜べる立場の人間にとっては、絶望でしかない。
たかが“現状維持”に喜ぶ人間の、なんと無神経なことか!

革命の機関紙というものは?
文字通りにのた打ち回り、体の感覚が歪み軋む中で、悔し涙を流しながら、腐った体液を搾り出してインクにするような激痛と共に書かれるものだと、個人的には思っていたりするのだが?
判を押したような上品な文章じゃあ心が勃たねェんだよ。

とにかく革命のスピードは遅い。南米の躍進も、米国の凋落も、そろそろ聞き飽きた。
こんなにチンタラしていて、私が生きているうちに“なんとかなる”とは思えない。なんともならない。
レーニンに言わせれば、10年が1日に圧縮された日が10日間も続くとか何とかかんとかだが、私が恐ろしいのは、そのときが来ないことではない。そのときが来ても、差別が消えないことだ。
それは杞憂ではない、実際に主義者たちは、共産主義社会に移行したところで即座に差別が消えることは無いと言っている。当たり前だ。そんな夢物語みたいなことが起きるわけがない。共産主義は、ただの現実主義だ。差別が消えるまでには、溜息が出るほどの時間を要する。
そして、差別が消えてもいないのに、多くの男どもは涙を流して喜ぶのだろう。その光景が今から見えるようだ。
ああ、まったく、“オトコの革命”には、もうウンザリである。

20年も前から属している組織だが、トータルで失望しか無かった。ろくに人間関係すら教えてもらえず、酷い目に遭った。人間関係とは、組織で活動するにあたって、最も重要なことではないのだろうか?
“属している”と書いたが、私に対する扱いは、対等な仲間への扱いではなかった。
彼らは、私が強くこだわることを、大したことだと思えない。
彼らは私より遥かにシビアな現実を潜り抜けてきているから、彼らの方が“正しい”。私の言論などは所詮、行動しない者の堂々巡りであって、死線やら修羅場を潜り抜けてきた人々からすれば、ただの通過点なのだ。
彼らにとって、いつまでも過去に引きずられている私は、いつまでも子供でしかないのだろう。
彼らから本気で尊敬されたことが無い。何かを発表しても、小学生の学芸会に拍手する保護者の目だ。
どれだけ私が苦しもうが、人ごと・・・もとい“子供ごと”なのだ。テキトーに同情して、愚痴に付き合ってやって、それでお終い。それで終わりだと思い込んでいる。何ひとつ終わってない。
私は立ち直ったかのように装っているだけだ。精神病の症状や発作と必死に戦いながら、紙一重で人前では平静を保てている。しかし、ショックから立ち直るということは、普通の人間なら当たり前に出来ることである・・・。
実際、その当たり前すら満足に出来ていないのだが、かろうじて出来てるフリをしている。それを見て、もう大丈夫だと判断し、忘れた頃に酷い仕打ちを与えてくる。
必死に努力して立ち直ったフリをし、必死に努力してそれを維持しているのに、簡単に台無しにしてくる。
どれだけ必死に維持しているのか知らないし、数日もすれば勝手に立ち直ると思っているのだろう。雑草か?
党やら旧左翼やらを批判したところで、やってることは大差ない・・・それが今の左翼の実態である。

どちらかというと今は右翼と付き合ってる方が気分良くて、何かの記事でも書いたと思うが、最近は右翼の言ってることの方が心に響く。右翼もピンキリで、女を見下しながら凶暴にがなりたてる馬鹿もいれば、人情味に溢れ理不尽への怒りを持った誠実な理論家もいる。そして、人の誇りを踏み躙っておきながら人情家ぶるゴミもいる。
例えば和月伸宏氏などは本当に心の底から尊敬できる、人情味と怒りを兼ね備えた人物だ。世に溢れる理不尽や不条理に対する切り込み方などは、彼に学んだところが大きい。創作的なことも含め、様々な意味で師匠と言える。
逆に、某国鉄民営化マンガを描いている奴などは、人の怒りを貶めることで自分を正当化し、悦に入ってる気持ち悪いゴミ野郎である。侮辱された悔しさで、腹をナイフで刺されたかと思うほどの痛みが夜通し続いた。
やはり右翼といっても千差万別で、一括りに正否も善悪も判断できない。それは左翼も同じことで、かつて某左翼グループのアジトで出会った人物などは、慰安婦の人格を貶めて理論家ぶるクズ野郎だった。

現代日本で人の心に機敏なのは、左翼よりも右翼の方であると思う。
トータルではなく、理性ある人々の中での話だが、理性の無い奴は語るに値しないので除外する。
そもそも私は左右の線引きを大して重要だとは思っていない。今の時代では、殊更そうだと思う。大事なのは右か左かよりも、筋を通しているかどうかだ。
よく、現代は価値観が多様化したと言われるが、多様化したのは価値観ではない。価値観の多様化などは、およそ千年も前には現代と変わらない程度には豊富なバリエーションがあったのではないかと考えている。千年というのは控え目に言ったつもりで、もっと昔から価値観は豊富だろう。それは文学にも顕れている。
多様化してきたのは、むしろ“立ち位置”ではないかと思う。
戦前は右一色だったのが、戦後は左右二色になり、現在では、極左、左、中道左派、中道右派、右、極右と、概ね6つほどに分けるのが適切だろうか。その中でも“右寄り”とか“左寄り”とか、この部分では左、この部分では右・・・など、多分もっと細かい。それだけ立ち位置は多様化している。それが当たり前になっている時代なのだ。
自分の考えを発表するとき、信用を失っている左翼の側からより、自由度の高い右翼の側から行う方が賢いかもしれない。賢いかどうかは別にしても、ちょっと昔は見かけなかった現象だと思う。
なので私は、右翼とか左翼とかいうのは、数ある基準のひとつとして、ひとつの目安として見ている。「希望は戦争だ」と叫んだ青年の声を聞いたのが、左右に関しての私の多角的思考の始まりだが、意外と現代の革命バイブルは右翼の側から出てくるのかもしれない。
そしてそれは、そのまま左翼の体たらくを示すものでもある。


つらつらと左翼への不満を書いてきたが、それで左翼やめますと言えるほど単純ではない。
マルクス主義者に失望しても、マルクス主義に失望したわけではないし、ここで革命やめますと簡単に言えるくらいなら最初から革命やってないのは前述の通りである。私の好き嫌いに関わらず、私は(残念ながら)革命者の側であり、のたくっていても左翼の末席を汚すことになっているのだ。
意識と立ち位置が合致しないのは様々な歪みを生じる不幸だが、精神病者の悲しさ、どこへ行こうが、この不幸からは逃れられない。とはいえ、自分だけではないという事実が多少は救いになってくれる。考え方と現実の立場が乖離しているのは、大勢が抱えている不幸だ。
どこへ行っても不幸から逃れられないのなら、今の位置で頑張るのが最善。きっと、ブラック企業に勤めている人も、そう考えて過労死していったんだろうと早速ネガティブなことを思いつつ、ちょっと一息・・・。(多少はネガティブな方が安定するし)
今後もマルクス主義を捨てることはないと確信しつつ、ひょっとして“マルクス教”の信者になってないかと若干の不安を覚える今日この頃であります。


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内 容 ニックネーム/日時
マルクス主義とマルクス主義者は違う。これはほかの思想・哲学にも言えることだと思います。私はマルクス主義者ではありませんが、根底にある哲学はあります。問題は、その信じる思想・哲学を研究するにあたり、独自の我見が入り、ほかの(たとえばマルクス主義者)が語る言葉が入ったりして、原型から離れる場合があります。
つまり先輩や仲間が自分よりも深くその道を探求して正しい指導をしてくれるなら良いのですが、間違って学んだことを自信満々語ってしまう場合があります。
こちらが元祖と寸分違わない探究をしていれば間違いを見破れますが、「先輩のおっしゃることだから」と信じてしまうと、偽○○主義者が生まれます。
イデオロギーよりも大事なことはやはり「生命」や「人権」といった普遍的なもので、それを軽んじるようでは、大事を語れる相手ではないと判断してしまいます。
組織の先輩後輩や上下関係を重視するのも同じで、同じ人間に上も下もあるわけがない。もっとわかりやすいのは、自分を軽んじる相手は仲間ではないということ。
直感で判断する部分は凄く大事だと思います。
ブラックホーク
2013/07/11 17:16
反戦平和を声高に叫びながら、いじめ問題を軽視している。これはもうアウトでしょう。矛盾しています。運動に身を投じることで自分に酔い、大それたほうへ走ると、流血革命になる。現代は無血革命しか民衆に共感されません。いかなる革命も民衆から乖離してしまうと、持続性を失うと思います。
もちろん民衆は愚にして賢。賢にして愚という厄介な性質を持っていますが、革命に人生のすべてを捧げるような革命家だけで戦うとなると、苦しい。普通のOLやサラリーマンや主婦や商売人が、自分の生活と家庭を守りながらも改革・革命に参加できる形が望ましいと思っています。
革命は自分が生きている間に成就しないかもしれない。だからこそ大河の流れのように、民衆を強く賢くする運動が不可欠で、権力の魔性を粉砕するような作家や、映画監督などが陸続と現れないといけない。
もちろん権力者イコール悪ではありません。そういう意味で私が今いちばん力を入れているのが「指導者革命」です。
民衆、庶民といっても、大きく分ければ悪質詐欺グループも売春グループも話に出てきたゴミ教員も「庶民」の中に入ってしまう。だから民衆が主君と言っても抽象的になってしまう。
素晴らしい人格の指導者が増えて国民を正しい方向へリードする。命を懸けて国民を守る。そんな指導者が増えれば・・・あまりにも遠い道のりですが、誰もやらないなら自分がやるしかありません。
ブラックホーク
2013/07/11 17:31
具体的には、自分自身が発言力と影響力を持つしかない。ここが一番困難な道のりです。私は友達が少ない。いないのかもしれないとさえ、最近思います。話が合わない。競馬やプロレスなど趣味の話は合うとしても、深い話になるとたちまち合わなくなります。
理由は簡単。この巨大な使命感と、無名の一般市民にそんな巨大な使命感があるとは誰も思わない。つまり軽んじているわけです。一度軽く見られたらもう大事は語れない。
三国志にもよく出てくるセリフです。「大事を語れる相手ではなかったか」という慨嘆。
私がベストセラー作家になり、発言力と影響力を持てば、初めて大それた発言を認める人間も出てくるのでしょう。しかし私が無名のときから信じていた人と、大成した後から認めた人間では、一緒にできません。
指導者革命を推進しないと、日本は競争社会となり、弱肉強食の地獄絵図が日本列島に描かれることになります。強い男。つまり健康で金持ちな強い人間が、弱い者を支配する世の中。とんでもない!
認められたいとは微塵も思いません。人と話が合わないたびに歓喜することにしています。それだけ独創的で無双の豪傑なのだと。革命推進のためならば結果を出すしかない。困難な道のりですが、それしかないと思っています。
一人が社会に打って出れば、無名の市民の声を世の中に反映できます。
話は尽きませんのでこの辺で。
ブラックホーク
2013/07/11 17:48
>ブラックホークさん
科学と科学者も別物だと日頃から思っていますが、あらゆる道で同じことが言えますね。私だけでなく大概の人間は、どうしても最初は先達の言うことを鵜呑みにしてしまいますが、先達も自分も私見を交えて語る・受け取るということを、意識できてからが本番。何事にも先達は欲しいものですが、守破離よろしく自分のルールを確立することで原型に近付けるような気がしています。
かつてのロシア革命でも、マルクス主義の第一人者を気取っていた人物が革命を裏切り、彼の子分扱いされていた人々が革命を立て直しました。後から振り返ってみれば、どちらが本物だったかは一目瞭然ですが、真っ只中にいる人間は迷いに迷います。私自身、やっぱり認識違いや誤解ですれ違ってきたのかもしれないという考えは捨て切れていないです。
完全に迷いを捨てることは出来ませんが、自分自身で原型を学び、その芯となる部分に具体的な肉付けをしていくことで、迷いに負けないだけの自信を手に入れることが出来ると思っています。となればマルクス主義だけに固執するのは骨と皮だけで戦うようなもので、むしろ様々な思想や哲学・学問などに積極的に触れて、血肉に満ちた思想を獲得できる。
そして最後は直感。絶え間なく、というほど努力できてはいませんが・・・努力した分だけ直感は鋭くなり、当てずっぽうとは異なる正解率を導き出せる。努力が報われたと思うときのひとつは、そんなときです。
アッキー
2013/07/11 22:10
努力の方向性を誤ったり、あるいは一方的な努力しかしていないと、分度器の原理で芯から乖離していく。そういうことは多く・・というより、そういうことが殆どなようです。革命に全てを捧げる職業革命家の陥りがちな罠は、職業革命家同士だけで連絡を緊密にして、民衆の中での活動を疎かにしてしまうことだと、だいぶ前から言われているようです。かつて日本の労働運動が衰退していったのも、血の気が多く力強い人間が、それ以外の人たちを置き去りにしていったことが大きいと思っています。
印象深いのが三里塚闘争のことで、幼い頃から苦労してきたおばあさんが、空港建設で立ち退きを迫られたとき、左翼の中には「あれは土地持ち農民の闘争であって労働者の闘争ではない」と言って静観を決め込む人も多かったそうです。反戦平和を唱えながらいじめ問題に冷淡な矛盾と、よく似てると感じました。
自分の利益だけを考えると、どうしても似たような矛盾に陥る。結局のところ私も自分の利益を考えて生きていますし、矛盾に怒りを覚えつつも別の矛盾を生み出しているかもしれません。
そんな中で「指導者革命」は有望だと思っています。日本だけでなく世界各国で同じような矛盾は山ほどありますが、その諸矛盾をカリスマによって緩和し、革命に進めるようになったのが南米諸国です。前例がある以上、日本でも不可能なはずはない。
私もうっかりしていて、南米と同じイメージで考えるから不可能だとしか思えなくなるのであって、指導者といっても政治のトップに立つだけが指導者ではなく、様々な方面で指導者は存在していますね。広い意味では、私も小さな指導者の一員であるはず。
アッキー
2013/07/11 22:10
しかし小さなままでは、せっかくの努力も大きな一撃で吹っ飛んでしまう。発言力と影響力を持つのは、私も最も難しいことだと思っています。会話するのが下手だと、話し合いの中でも置いてけぼりを食らったり、話が合わなかったりすることが多く、不満が蓄積していきます。インターネットの発達で、ようやく牙を立てることが出来た程度でしょうか。
影響力が強い人の中には、確かな実力と謙虚さを持ち合わせた人もいれば、いじめ問題をブームとして消費するような人もいる。私も自分が深く考えているかと自問すると自信が無いですが、それでも軽んじられるのは気分が滅入る。自分は大きな使命を抱えているのだと思った方が良さそうです。
現実の具体的な様々なことから、やはり自分がそんな大人物である感触は乏しいのですが、そのように振る舞い行動することで、それに近付いていけるのだという希望を持ちながら生きていくしかないのでしょう。
自分でも時に動けなくなり涙するほどの困難な道のりですが、同じ道を歩く人に対して恥じる生き方をしたくないと思うのも、また事実。あるいは、自分に恥じたくないということかもしれません。そしてそれは、大成する為には必要な条件でもあるはず。
溜まっていた澱の大きな塊が、ひとつ抜けた気分です。また折に触れて語りたいと思います。
それでは。
アッキー
2013/07/11 22:10
お久しぶりにコメントします。
共感するところが多くありました。もっとも、文字からの情報のみですので、受け取る私の勝手な解釈も混ざっているとは思いますが。
人間だれしも他人の気持ちは分からないものですね。自分の気持ちすら分からないことがあるのに、どうして他人の気持ちが理解できようか。それでも他人の気持ちを理解しようとするのは、生きるためなのかな、と思います。家族の中で、友達の中で、職場の中で、社会の中で、生きるためなのだと思います。
私の勝手な解釈ですみません。
そうそう、今日7月12日の金曜ロードショーはジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」です。気晴らしにどうでしょう。
表裏
2013/07/12 15:25
>表裏さん
お久しぶりです! ブログも更新されたようで、後で遊びに行きますね。
自分の気持ちも他人の気持ちも、なかなかわからないものですし、発する側と受け取る側で、同じ文字でもイメージや解釈は違ってきますね。それが当たり前なのだというのは、理解できても納得いかないこともあったりして、息苦しい・生き苦しいです。
私にとっても、“理解したい”という思いは“生きたい”という思いと近いですね。生物学的に考えれば、肉体の生存には食事と睡眠だけあればいいはずですが、そうもいかないのが人間。やはり人間は、社会的な生物なのだと思います。
それにしても、「平成狸合戦ぽんぽこ」とは、またタイムリーな・・。劇場で観たときは素直に楽しんでいた私ですが、後になって労働運動の敗北を示唆しているのだという話を聞いて、再び観たときは印象がガラリと変わっていました。そして今になって、またラストのセリフの印象なども変わりました。同じ作品でも、受け取る人間の時期や関心事でも解釈が変わりますね。
アッキー
2013/07/12 23:03
人生 生死 で 検索中です。マルクスの本 を 少し読んだことがあります
名言も 多いですね。私は 宗教も好きです。(主に伝統のある仏教かなぁ)
マルクスの本の中にも 宗教は〜アヘン〜 読んだ気がします。
哲学 偉人の伝記も もっと読みたいです。
まだ 名作 蟹工船 読んでいません。労働者の労働と体力〜 ネットの中のロボット工学〜政治とは なんだろうか?
人生とは どれくらいのこと できるかなぁ?何ができるかなぁ?何か 残すのかなぁ。何も 残さないかなぁ。生きた証 自己の人生 苦楽と原因と結果
出会いと人生。読書同好会(名前検討中 人生研究会(名前検討中
村石太Σ&検索マン&ララ
2013/07/14 11:31
>村石太Σ&検索マン&ララさん
私が好きな言葉のひとつは、「真理は常に具体的」です。
マルクスは宗教を麻薬だと言いましたが、それは宗教を否定するというより、むしろマルクス主義そのものが抽象的に教条化されてしまうのを危惧したのではないかと、個人的には解釈しています。
宗教は私としても色々と興味深く面白いと思っています。仏教も伝来と歴史的な経緯を経て、様々にバリエーションが増えていきましたが、やはり貧しい人の立場に立っているものは、内実も優れていると感じます。
これからの人生、あるいは残りの人生ですが、何を残せるかというのは私もずっと考えています。もう何かを残しているのかもしれない、まだ何も残せてないのかもしれない、それも具体的な中で決まっていくのでしょうか。
とりあえず、小林多喜二の遺した「蟹工船」は、近いうちにまた読んでみようかと思います。
アッキー
2013/07/14 22:35

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