佐久間闇子と奇妙な世界

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zoom RSS 2014年1月

<<   作成日時 : 2014/01/01 00:05   >>

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とある高校生が祖母を殺して自殺した。1979年1月のことだ。
彼が遺した遺書には、こう書かれていたという。
「エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低脳な大衆・劣等性どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を一人でも減らすため」
これを報道することで大衆が不愉快になることを狙った、とも書かれていたようだ。その目論見が、どれだけ成功したのかは定かではないが、おそらくは本人の望む程ではなかっただろう。
ここで挙げられている“大衆”を、これを紹介した解説者は、「他の人々と同じであることに安心し、あるがままの自分に満足する人々」(オルテガの規定)としている。
友人が「大衆は賢にして愚、愚にして賢」と言っていたが、そのことを思い出すと共に意味を理解した。
彼が死んでから35年が経った今、この「遺書」を読んだ私は、あることが腑に落ちた。



ある文章を読んだとき、ぼんやりと心の中を漂っていた疑問の欠片が、急に鮮明に現れ、あっという間に“答え”として形を成した経験はないだろうか。
「めだかボックス」を読んでいて、そのときは読み飛ばしていたような疑問が、急に解決した。

抱いていた疑問というのは、「どうして球磨川禊は目標を“全人類抹殺”から“エリート抹殺”に切り替えたのか」ということだ。不知火理事長も、「あなただって本来“そちら側”の人間でしょうに」と疑問を呈している。
これの答えは、『「人生はプラスマイナスゼロだ」って言う奴は、決まってプラスの奴なんだ。』というセリフなど、随所で現れている。「プラス」の「マイナス」に対する、いやらしい優越感は、なるほど、抹殺したくなるものだ。
詳しいことは過去のエッセイで語っているが、簡潔に述べれば、私は「球磨川禊の発言と行動について理解できないものが何ひとつ見当たらない」のだ。不気味なほどに、わかりやすすぎる。

かように、“エリート抹殺”の理由などは、有り余るほどにありすぎるのだが、ここで生じる疑問がある。
“全人類抹殺”の理由が、謎のままだ。これが謎だったのだ。ジュブナイルを読んでも謎のままだった。

ところが、ふと、35年前の遺書を読んで、もしかすると球磨川禊は当初、“大衆憎悪”を抱いていたのではないだろうかと考えた。そこからは芋づる式だ。

“大衆”はエリートを妬むが、しかしエリートを攻撃しない。では誰を攻撃するのか?
私は決してエリートではないが、「エリートを妬む人間にとって攻撃しやすい的」であった。すなわち、「学業の成績は良いが、運動と会話が苦手」という、コミュニケーション劣等生の典型だ。
確実に勝てて、しかも「エリートをやっつけた」という思いを擬似的に体験させてくれる・・・こういったタイプが、“大衆”から攻撃される。いじめの構図だ。加害者は楽しみを奪われたくないから、必死で理屈を構築する。

擬似エリートへの攻撃は、様々なところで現れている。創作物でも。
成績が良くて運動が苦手な生徒や、それが成長したような教師を、嫌味な性格で描き、やっつけたり“改心”させたりする。それを行うのは、不良であったり、破天荒な教師であったりする。
ゴールデンタイムのアニメにさえ、「お勉強ばかり頑張っても、運動が出来ないとかっこ悪い」という歌詞が平然と流され、子供たちの耳に入る。

「ドラゴン桜」で、「東大生は性格が悪いなんて、ただの僻みだ。東大に入ってない奴に何がわかる」というセリフが出てきたとき、流石に言いすぎだろうと失笑したものだが・・・しかし、こうした現実を踏まえると、そう言いたくなる気持ちはわからなくもない。暴言ではあるが・・・。
「スポーツで1位を目指すことは良いことなのに、勉強で1位を目指すことは何故非難されるのか」というあたりが、丁度いい塩梅だろうか。

よく暴力と性表現は槍玉に挙げられるが、斉藤環氏の言うように、「思想」の凶暴さに比べれば問題にならない。
少なくとも私は、性と暴力の表現を、どうしたって現実で真似ようとは思えない。そして私を最も凶暴にするのは、なんといっても「思想」である。自分でも驚くほどに。
思想はイデオロギーと訳されるが、私の「思想」に対するイメージは、もっと広い。感覚、価値観、判断基準、理念、感情、目標、指針・・・そういったアレコレを総合した「思想」は、日常にも潜む強大な怪物だ。

球磨川禊はマイナス側の人間でありながら、“大衆”の餌食になりやすい「擬似エリート」の条件も満たしているように思える。“普通”の人間が屋上まで駆け上がるようなマンガで、体力や運動能力を判定するのは、それこそ『シュールギャグ』でしかないが、体力的に劣位な描写が幾つか見受けられる。
そして、おそらくだが勉強の方面は出来が良い。それを成績に反映させることを、どの時点で諦めたのか、あるいは成績は良いのか、それは不明なのだが・・・・少なくとも、頭が悪いはずはない。
不知火理事長のセリフのうち「そちら側」に傍点が振られていたことも、この説を裏付けるものだ。

小説版では数学について談義しているが、これが韜晦である可能性も含めて、彼の数学力を低いと判定する基準にはならないだろう。たとえ数学方面が不得手であっても、これほどの弁舌力の持ち主が国語で優位でなければ、「ラノベ部」の物部文香が小学生時代に味わった失望よろしく、教える側の問題だろう。そういった過去を持っている可能性は、およそ現実的だと思う。

また、『いいことがあったからってやなことが帳消しだなんて思えたことはない』というセリフは、裏を返せば極めて高い記憶力と集中力を持っているということでもある。彼のような弁舌力すら持っていなかった私が、まがりなりにも小中学校時代に高い成績を維持できたのは、優れた記憶力を持っていたからなのだ。
しかし、“優れた”と表現するのは、実は間違っている。本当の意味で優れた記憶能力というのは、覚えておくべき情報のみを覚えておく能力である。

人間の脳は獲得した情報を無差別に吸収し、無作為に脳内で組み合わせる。これは誰でも持っている機能であり、日頃の行動によって、無数の組み合わせの中から意味のあるものを選び出すことが出来る。
人間は嫌なことを忘れるから健常な社会生活が送れる。およそ無差別的な記憶能力は、忘れる能力の欠落であり、まさに“過負荷”に属するスキルであると言える。



エリートを妬み、攻撃しやすい擬似エリートを攻撃する、“大衆”。
マルクス主義では、やむにやまれぬ状況を背景に大衆が行動し、それによって自己変革を遂げていくことで、革命は成し遂げられるのだという。
そして、私の父親も、「子供時代には嫌な奴が多かったが、金持ちと貧乏人では後が違った。金持ちの嫌な奴はずっと嫌なままだが、貧乏人の嫌な奴とは親交を深めたり、そうでなくても金持ちとは違うと感じた。」と語る。

これらを聞いたときの、私の絶望は、すぐにそれが絶望であるほど気付けない程のものだった。
長い時間をかけて、ジワジワと絶望した。自分は「悪い奴」なのだろうかと。

私の体験では、いじめ加害者は、金持ちも貧乏人も、全て唾棄すべき屑でしかない。金銭や成績などで、父親の言うような“違い”など感じられない。
35年前の遺書の言葉通り、いや、この程度の罵りではとても足りない憎悪を、今でも抱えている。
自分は革命の敵ではないのか。父親と私の関係は、レーニンとスターリンによく似ている。

どう考えても革命に必要な能力を備えていないような“大衆”が、行動によって自己変革を遂げていく・・・それは、いじめられていた頃から抱いていた、最悪の恐怖だ。
私を虐げた連中までが“自己変革”を遂げて、革命の一翼を担っていくということが、現実的な可能性として存在し、それが革命の希望だというのだから。

なるほど、私を虐げた連中のうち、幾らかは惨めな最期を遂げるかもしれない。
哀れな労働者として。資本主義の犠牲者として。・・・つまり、加害者として罰せられるのではなく。

とはいえ、この程度であれば、“この程度”であれば、まだ革命に絶望するには足りなかった。
私に最後の一撃を加えたのは、私を虐げた輩を父親が庇ったことだった。
その日から、革命に関する言葉が全て空々しく聞こえるようになった。嘆くだけで事態を改善しようとしない母親も鬱陶しい。いっそう事態を悪くしたことすらあった。不愉快だ。

感覚的に相容れない部分あれど、加害者に対する憎悪は共有してるという確信あればこそ、かろうじて革命の側に立てていたのだ。それが根底から崩された。

このことでマルクス主義そのものを疑うほど、私は感情に偏って生きてるわけではない。自分の置かれた状況が革命の利益と反することは、革命の理論を否定する材料にならないのは当たり前だ。
粉々の残骸になった精神が、かろうじてグズグズの豆腐くらいには再構築できたのだから、そういう意味でもマルクス主義は大したものである。
しかし、革命が必然だということと、そこに自分の居場所があるかどうかは、別問題なのだ。

子供の頃から様々なことを教えてもらったことには感謝しているし、それが無ければ発狂していただろう。自殺していたかもしれない。命をくれた親であると同時に命の恩人でもある。
父親は「子供の頃から色々と吹き込みすぎた」と後悔しているが、それがいじめられた原因だとでも思ってるのだろうか。「被害者が悪い」という加害者の論理そのもので、ヘドが出る。
「エアマスター」の崎山香織のセリフで、「枝を張り合えばぶつかるもんだろ」という言葉が印象的だが、どの道を選んでも恐ろしい状況が待ち受けていたに違いないのだ。世の中そんなに甘くない。

けれど、もういいや、と思う。
父親からの“最後の一撃”によってもたらされた現実(今でも変わらない)と、自分の感覚の乖離に、長いこと苦しんでいたが、今後は共に活動することはないという結論に、ようやく落ち着いた。

同じ結論を父親はかなり前から出していたようで、その早さと正確さには驚くばかりである。
相手が実子であろうが判断は冷徹なことが嬉しい。それは私を大人として見ていることの証明でもあるし、そうでなくても私は冷徹な(≒甘くない)人間が好きなのだ。
かつてマテオ・ファルコネを語った精神は、今でも衰えてないようで安心する。

それはさておき、今後どうするかというと、既に日々の活動は思考に先攻して進んでいる。
「一流になりたければ一流の金の使い方を覚えろ」というのは、「辺境警備」でサウル・カダフが述べたことだが、要するに一流の行動を真似すれば一流に近付けるということだ。
一流の反逆者は、この学歴社会そのものを批判する。そして、「鈴木先生」や「思春期ポストモダン」などで述べられているような「“優等生”と“ヤンキー”の対立」や、いじめ問題の根本が、貧困にあると論じる。これは私ひとりでは到底辿り着けなかった見地であり、マルクス主義の理念でも、実感として無理だった。

ここでの“貧困”は、単に「カネが無い」というだけに留まらない。
労働強化による“地獄の沙汰”は、人間関係を破壊する。
いわゆる“疎外”というのは、労働者が生み出した価値を資本家に強奪される“搾取”と関連して説明されるが、しかし文字から浮かぶイメージは甚だ精神的なもの・・・「疎外感」などであり、それも重要なことだ。
労働現場のみならず、学校や家庭など様々なところで、「自分の居場所が無い」と感じる人がいる。
いわゆる“労働疎外”だけでなく、まんま浮かぶ“疎外感”についても語らねば、片手落ちだ。

“貧困”を「カネが無い」ことだけに限定する貧困な発想からは、現実と乖離した楽観論しか出てこない。
「そのうち何とかなるだろう」では、遅れに遅れている。
“そのうち”の間に、人は死ぬ。「死んだら何にも出来やしない」のだ。
ダラダラと生きてる私が言うと説得力が落ちる感が否めないが、無神経な励ましが貧困者を追い詰めているのは事実として存在する。死んだら心が弱かったと、処理されていく。

貧困。貧困、である。
どうしようもないことの大半は、それぞれが関連していて、根っこに貧困がある。
大半は、と述べたのは私の科学的良心であって、やはり感覚としては、全ての“どうしようもないこと”に貧困が関わっている。
満たされていれば、ちょっとくらい傷ついたところで、どうってことない。これは真理だと思う。
なればこそ、自分を満たすものを探すのが幸福追求の命題ではあるが・・・思わぬところでケチがついたり、横槍が入ったりする。極めて複雑な人間関係の中では、そうした動きを予測しきれない。

ケチがつこうが、横槍が入ろうが・・・それこそ、「もう駄目だ」「これはもう駄目だろう」という状況ですら、しぶとく頑張ってる奴らが世の中を回していると、鈴木先生は言う。
おそらく、それこそが「めだかボックス」でいうところの“普通”(ノーマル)なのだ。
箱庭学園のクラス分けは、ノーマルが一組から九組まで、スペシャルが十組から十二組まで、アブノーマルが十三組、マイナスが−十三組だ。そしてノットイコールは全人類の1割である。

ここからが我流の分類になるが、人類の10パーセントは悪平等、9パーセントは普通(ノーマル)、3パーセントは特別、1パーセントは異常で、同じく1パーセントが過負荷。
そして残りの76パーセントが普通(クズ)だ。すなわち、オルテガの言うところの“大衆”である。
引っかかっていたこと・・・謎というほどではないにしろ、どうにも引っかかっていたことに、鶴御崎山海や上峰書子の、“普通”に対する蔑視があったのだが、それも腑に落ちることとなった。

分類から含めて、安心院さんには愚劣だと罵られそう(ご褒美です)だが、箱庭学園の最も異常なところは、普通の生徒が総じてノーマルであってクズではないところなのだ。
「箱庭学園には雑魚キャラなどいない」というセリフは、なかなかに示唆的である。あれは綺麗事とかではなく、そのまんまの意味だったのだ。



最後に、作品を紹介がてら、少し。
ここ最近の「学校モノ」の傾向は、だいぶ変わってきたと思う。

例えば、「鈴木先生」や「ねじまきカギュー」のカモ先生などは、モロに“大衆”から攻撃されるタイプの、“擬似エリート”である。こうしたタイプが重要キャラとして肯定的に描かれること自体、時代の変化を感じる。
やや趣は違うが、「こどものじかん」の青木先生も、新しい時代を感じさせた。体育会系出身でありながら、人を無視した強引なスタンドプレーには走らない。彼のスタンドプレーは、応急処置であって治療ではない。決して快刀乱麻に解決するような爽快なものではない。泥臭く現実的な“聖なるもの”は、鈴木先生と近いものがある。

「ドラゴン桜」の桜木健二も、やはり新時代の教師だ。彼の経歴や性格は、いかにも破天荒なスタンドプレーをする教師をイメージさせるが、そのイメージ通りなのは殆ど最初の頃だけで、全体では少ない。
イメージが固定されてきたのは何も“擬似エリート”だけではないということがわかる。桜木は凝り固まったイメージを柔らかく崩してくれる。
東大受験マンガである「ドラゴン桜」は、同時に学歴社会への批判にもなっている。教師が大学その他アカデミックな出身ばかりであれば、それは逆に、いやらしいエリート意識が復活する危険があった。しかし桜木は中卒であり、「日本の大学はどこも大差ない」とも発言している。それでいて、貧相な妬みは見受けられない。作中で論文の話が出てくるが、このマンガそのものが、社会を「論じる」構成になっている。壮大な論文だ。

多様性。重要なのは、多様性だ。
もちろん最近の学校マンガでも、気に入らないものはある。明らかに現場を知らないド素人の描いたものもある。
かといって、それらを潰そうとするのは駄目だ。
倫理観の問題でもあるが、自分の気に入らない創作物であっても存在は否定しないからこそ、創作物を弾圧することに反対できるのだから。
内容に実在人物への誹謗中傷を含んでいたりする場合など、具体的な細かいところは複雑で線引きが難しいのだが、基本スタンスとして存在を否定してはならないということは、他の誰よりも自分自身に、肝に銘じろと忠告する。


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テレビなどを見ていて、大衆を「何てバカなんだ」と嘆くときもあれば、「日本人は素晴らしい」と誇りに感じることもある。愚にも賢にもなることを百も承知で、やはり民衆を無視はできない。
ずっと疑問に感じていて、誰に聞いても明解に答えられる大人が皆無の難問を、もしも作品の中で明解に語っていたら、それは優れた文学作品だと思う。実際にそういうこともありました。
大衆憎悪の怖さは、ドラマなんかだとテロの理由になってしまうこと。刑事ドラマでの日本人テロリストの言葉が耳に残っています。
「これだけデタラメなことされて暴動の一つも起きない国なんて、日本くらいだ」
でも実際は過去に暴動や流血の衝突もあったから、日本人がどうのとは言えないけれど、大事なことは政治家側が、「日本人はおとなしいから」と甘く軽く見ていたら危ないと危惧します。
99%無理とわかっていても、私は「指導者革命」を推進したい。そのためにはどうしても国会議員を動かすほどの影響力と発言力が要る。無名の市民の発言など、誰も聞かない。世の中は冷酷です。肩書きのない人間には本当に冷たい。逆に、性格が最悪でも弁護士や大学教授というだけで襟を正して話を聞いて納得してしまう。死ぬほど脆いです。
誰か力がある人間がやってくれればいいが、人なんてわからない。
会社組織でいえば幹部革命ということになります。教員革命。政治家革命。とにかく人の上に立つ人間が変わることが重要で、バカ丸出しの弁護士や政治屋はもう見たくない。
この続きはあとで。
ブラックホーク
2014/01/01 14:00
クイズ番組で東大出身タレントが正解を答えられないと、「東大のくせに」と言うのも逆の意味で学歴を気にしすぎている。本当に学歴が関係ないならば誰が東大か京大かなど全く興味がないので知りません。
学歴は関係ない。しかし学力は必要です。どんなに忙しくても作家は毎日猛勉強しなければいけないと肝に銘じています。読書一つ見ても、読みたい本は膨大で、おそらく一生のうちに全部読むのは無理かもしれない量です。それでも毎日読む。
思想の正邪にはあまりにも無知・無関心で、これは一般庶民だけでなく政治家も評論家も大学教授もそうです。
思想哲学は学問としても特殊です。皆大学教授は頭がいいと勘違いしていますが、思想に関してはド素人の場合がある。しかし立場上知らないのにそれなりのことを答えてしまう。
ここでこちらが思想哲学を相当探究していないと見破れない。昔、長州力が海外のアマレスのトーナメントに飛び入りで参加するハメになった。アマレス五輪出身の現役プロレスラーとして死んでも負けられないという真剣な顔が印象的でした。
実際地力は段違いで、全部秒殺で長州力が優勝。
凄いと感動しました。私も哲学する乱暴者として長州力と同じ思いです。
日本の思想の乱れは危険なレベルです。疑うことを知らない。なぜ考えずに人が言うことを信用してしまうのか? 土壌がないんです。 
ブラックホーク
2014/01/01 20:02
イデオロギーよりも普遍性。難しいですが、多種多様な価値観を認め、異文化を認め、無理に言い争わない。考え方や感覚、価値観が異なっても、たとえば平和を目指しているなら、その共通項から対話の糸口をつかむ。
相手をやり込める法論のような討論はしたくないので、カーネギーの肯定術を巧みに使い、対話を成立させようと努力します。これはロープに飛ばされて返ってきて、相手のドロップキックを食らうプロレスの感性も役に立っています。
貧困と日常の暴力。これを本気で撲滅しようと社会全体が動いたことは、まだないと思っています。
経済対策も貧困撲滅というノリは感じられないし、日常の暴力。つまり、いじめ、DV、詐欺、パワハラ、セクハラ、虐待など、全国会議員が本気で解決に乗り出したら解決できる気もしますが、そんな時代は一度もありません。
暴れん将軍を見るとき、こういう総理・・・は無理でも、市長でも知事でもいたら。あるいは自分がなろうかと思うこともあります。
年賀状に一通だけ、「ご健筆を祈っています」という一文がありました。普通は「御健康」「ご健勝」と書きますが、「ご健筆」と。相手に合わせた的確な一文を書ける人がいる。
無名な作家をプロ作家扱いでご健筆と。さりげない励ましができる人がいるものです。嬉しく思いましたね。


ブラックホーク
2014/01/01 20:16
>ブラックホークさん
ここ1、2年ほど、多数決の原理について、再び考えることが多くなりました。多数者による決定は、そこにどれほどの意思があるのかということも含めて、必ずしも正しくはないですが、多数者の意見は絶対に無視できない。しかし、意見がそのまま決定に繋がってしまう現実と衝突し続けると、テロの方へ行ってしまう気持ちが、わかってしまいます。それとは逆に、そうした不条理が文学の中で解きほぐされていたら、自分も文学の側へ立ちたいと思います。多くの文学に触れてきたことで、私は犯罪者でなく文学者でいられるのだと感じます。
現代の若者は大人しいと言われますが、それは暴力事件や性犯罪を起こす率が少ないというだけで、心の中は必ずしも大人しくないと思っています。しかし同時に、鬱積した怒りが弱い方向へ流れてしまっていて、それも体制側の思う壺ですね。自分たちに歯向かわなければ安全だと、高を括っている。
だからこそ、怒りや憎しみを革命の方向へ持っていくことが出来る、優れた指導者が必要ではあるのですが、本来そうした役割を担うべき人々が、人の心に対して冷酷だったりする。ただ待っているだけでは埒が明かないので、かつては私も指導者を目指していましたが、人から嫌われるようでは指導者になれない。かといって、人から好かれるタイプは、怒りや憎しみに対して今ひとつ鈍い。
優れた指導者が各所で台頭してくるまで、自分の得意分野を突き詰めるあたりが、現状での暫定的な答えですが、暗雲漂う気分は抜けません。
アッキー
2014/01/01 21:06
>ブラックホークさん(続き)
バラエティー、特にクイズ番組で、よく出身大学が強調されますが、ローカリズムを煽るという点でも、あまり良くないと思っています。大学によって重点的な分野に違いはあっても、頭が良いとか悪いとかではないはず。
やはり学歴よりも学力ですね。学力の伴った学歴でなければボロが出ますし、学歴が無くても学力があれば明晰たる。そして学力は学歴と違って、いったん獲得したら一生というわけではなく、絶えず研鑽を続けなければ劣化してしまう。高い頻度で研鑽を積んで、新鮮に保ちたいです。
勉強というのは生きることと同義で、生活と一体のものでなくてはならないと、「ドラゴン桜」でも述べられていましたが、まさにその通りだと思います。いかに点を取るかという訓練だけでは、学歴は獲得できても学力は身に付かない。論理的思考力の土壌が貧しいままでは、簡単に流されてしまう。
論理的思考力を鍛える訓練は、一朝一夕には身に付かない。学校や家庭の任務は重大ですが、教える立場の人間も、あまり論理的思考力が身についていなかったりする。まず教育者が育ってない現状があります。
実は誰でも教育者になる可能性があり、死んでも譲れないものがある真剣さに触れるとき、その人を尊敬するとき、これが「学ぶこと」だと感じます。
アッキー
2014/01/01 21:07
思想を問題にするとき、具体的な状況よりも、文言が優先されて形骸化していくということが何度もありました。挙げればキリがありませんし、今でも起こり続けています。そんな死んだ思想では、相手を貶め、やり込める討論が関の山になってしまう。対話をするとき、「どう考えても駄目だろう」ということであっても、一度は立ち止まって考えたいものです。結果として、やはり駄目だと判断しても、立ち止まる理性を発揮したことが次へ繋がる。相手の言い分を肯定的に捉えることが、対話では重要になってきますね。
人類の歴史は戦争の歴史だと、よく耳にしてきましたが、対話より戦争の方が楽なんだろうと思います。戦争は自分の言い分だけを通せばいいので、相手の言うことに耳を傾ける必要が無い。熟考する努力をしなくていい。戦場に行かないと、本当に気楽なものだと思います。
いじめ問題も、様々な取り上げられ方をしていますが、どうも真剣さが感じられない。それなりに真剣ではあっても、所詮は過去に何度かあった「いじめブーム」でしかないと感じます。ブームに便乗しただけの安っぽいものには、どうにも納得できない。作家でも酷いのがチラホラあり、テレビや雑誌などでは言わずもがなです。
創作に憧れ、これを指標とすべきだと思うことがあるのと同時に、小説を書いていると、キャラクターが自分に先行していると思うときがあります。自分がやっていることが、過去に書いた話でキャラクターが行っていたことだったりする。現在書いていることは、未来の自分の姿なのかもしれません。
相手に合わせた話し方や表現。これは最近ようやくモノになりはじめたか・・というレベルの私ですが、さりげなくも的確な励ましが出来るよう、これからも精進します。
アッキー
2014/01/01 21:07

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2014年1月 佐久間闇子と奇妙な世界/BIGLOBEウェブリブログ
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