佐久間闇子と奇妙な世界

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<<   作成日時 : 2014/01/01 00:10   >>

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東日本大震災から、そろそろ3年が経とうとしている。
「週間金曜日」971号で、赤坂氏と市村氏の対談を読んで、“差別される福島”の項目が特に心に残った。
やや遅ればせながら、感想。

(以下、抜粋)

市村:一方で、原発避難者が置かれた状況は、複雑です。以前、大阪の反原発団体が、福島の子どもたちの葬式デモをやっていたという話を聞きました。実際に映像を見て、コメントするのも嫌になった。被災者のなかでは、話にならないって散々怒っていた。それに、人気番組の「笑点」で、「うちに帰りたくない理由」ってお題で、「放射能がいっぱいで帰りたくない」とコメントしていた。これは、もう風評のレベルではないように思います。
赤坂:福島の高校生たちがある演劇で「私たちは子どもが生めるの」という叫びをしました。それに対して、札幌で避難者を支援している一つのグループが障害者。その人が「どういう状況であれ、必ず、障害を持った子どもたちは生まれてくるんです。それをどう引き受けるか、ということが問われているんです」と発言したことがあります。一部の反原発の人たちが、正義をかざしていることが、どれだけ福島差別になっているのか、全く気付いていないという、現状がある。

(以上、抜粋)

まずは葬式デモの件だが、これを聞いたときに私が思い至るのは、かつて参加したデモのことだ。
シュプレヒコールのパターンのひとつとして、問題の焦点となっている人物の名前を挙げて、それに続けて気の利いた文言を唱え、それに参加者が続ける・・・というものがある。
そのときの文言が「トイレに流せ」であった。これを聞いたときの気持ち悪さは、どうにも説明しにくい。
とても復唱する気になれず、「同じ苗字の人が気を悪くするのではないか」と質問した。
返答は、「どの御手洗かわかるから大丈夫だ」というもので、これは相容れないと感じた。
なるほど確かに、派遣労働者を増やして労働者9割を使い捨てにするべく経済を動かし、自己責任論を展開する“彼ら”は、愚劣きわまりない。それは私も認めるところである。
しかし、苗字を攻撃するような品性は、果たしてそれより上等なのだろうか?
私の友人には、個人の名を挙げて攻撃することすら自らに禁じている、ストイックな人もいる。全員がそれに倣えと言うつもりは無いが、名前を出すことは“よっぽどのこと”だという認識は無ければならないだろう。
何を以って“よっぽどのこと”とするかは個人の裁量にもよるが、例えば私はブログで実在の個人名を挙げるときは、それが批判でなくても、手が震え、呼吸が荒くなり、歯がガタガタ鳴る。(歴史上の人物とかは別だが)
それくらいの恐怖はあるし、個人名を出したことで非難されないか折に触れて怯えている。
これでも無責任だと思うし、大した覚悟も無しに適当に書いている方だ。戦時中の命懸けの執筆を思えば、これは決して大袈裟でもストイックでもない。(今まさに日本は戦争に向かっていることだし)
どこに“標準”や“基準”を置くか、何を“スタンダード”とするかで、運動の質が変わるし、限界も変わってくる。
奇をてらったデモで、キャッチーなシュプレヒコールで、人目を引こう、人を集めようとするのは、“ただそれだけ”なら政治屋の騙りと何も違わない。有象無象には有効だろうし、有象無象の中から本物が生まれることもあるだろうが、同じ数だけ失望する人が離れていけば、ソビエトの二の舞にもならない。
「鈴木先生」風に言えば、“途中式のあるプラスマイナスゼロ”というやつだ。たとえ結果がプラスであろうが、途中式に膨大なマイナスが存在すれば、後々よからぬ種になることは言うまでもない。

次に、大喜利の件。さもありなん。
さもありなん、である。私は驚きはしない。伝統芸能の世界は、そういう世界だと知っている。何でもネタにする。
なるべく簡潔に表現すれば、“古き良きおおらかな時代の無知無理解無神経”と言えるだろうか。
妹が「笑点」のファンなので、観る機会も多いが、「寄席芸人伝」で描かれているような時代に比べれば随分とマシになったものだと思う。(あの時代は、女は社会的に家畜か消耗品で、当時の体験者と話したこともある。)
一方で、下町の人情や大自然との触れ合いは、まさに“古き良き”なのだが・・・困ったことに下卑た側面と表裏一体で、切り離せないものとなっている。
私自身、笑点の大喜利を、時々眉を顰めるにせよ、基本的には面白く観ている。すると、「そんなことを言われたら、これから笑点を観て笑えなくなるじゃないか、どうしてくれるんだ」という気持ちにすらなる。
また、あの回答は福島の人に向けたものではなく、政府批判だという感覚もある。
もちろん、この気持ちや感覚は身勝手なものだ。身勝手でなければ、無知無理解無神経だ。
いじめ問題では、私が赤坂氏と市村氏の立場である。某法律マンガや某将棋マンガの、あるエピソードに対して吐き気がするほどの怒りを感じている。いかにも“いじめブーム”に乗っかって作ったような内容と、お涙頂戴の安っぽい結末に、某法律マンガの方は完全に嫌気が差して読むのをやめた。(某将棋マンガの方は、将棋パートが素晴らしすぎるので読み続けているが)
「屋根の上の魔女」で、「いじめは10年前(作中からの10年前)なら商売のネタとして通用しなかった」というセリフがあるが、商売のネタとして通用し始めると、いじめ問題を消耗品にする連中が出るわ出るわ・・・。
この反応に対して、多くの人は共感できないと思う。いじめ被害者の中でも、共感できない人もいるだろうし、それどころか、これら2作に救われたという人さえ少なくないだろう。
(補足しておくと、たまに良質なものもあるから、商売のネタになることが一概に悪いわけではないと思っている。個人的には「ホーリーランド」と「きみとぼくの壊れた世界」が秀逸。)
話をまとめると、被害者の認識が絶対に正しい。これが私の基本スタンスである。(被害者だから何を言ってもいいという意味ではないし、正しいのは“認識”であって、必ずしも正しい発言を出来るとは限らない)
つまり、被害者である赤坂氏と市村氏の感覚が正しく、私が抱いた不満“のようなもの”は、身勝手なものだということになる。これが私の理性が出した結論であり、それに従うことに不満は無い。

伝統芸能だけクローズアップするのも、何だか伝統芸能を過剰に攻撃してるように思えてくるので、ついでに。
音楽の世界も大概である。親戚にプロの音楽家がいるが、まあ、無神経な人々である。尊敬できる側面もあるのだが、どうにも相容れないと感じている。
その中の1人が「のだめカンタービレ」を読んで、「こんな普通なマンガの何が面白いのか」とコメントしたそうだが、あのカオスでシュールな内容を“普通”と感じる世界に戦慄したものだった。そういう世界に生きてる人間と、どうしたって相容れるはずがない。
芸能界にしろ、音楽界にしろ、それからスポーツと格闘技の世界もだが、右翼が多いと聞く。
前述したシュプレヒコールのパターンを聞いて、「笑点」を思い浮かべた人も少なくないと思うが、無知無理解無神経は、左右どちらでもお家芸のようだ。

・・・なんてことを書くと右から左から五月蝿いので、もう少し補足。
右翼だろうが左翼だろうが、誠実で細やかな人もいるのだが、横柄で無神経な連中が幅を利かせているという点では変わらないなァという意味だ。
つまり、ここで問題にしているのは左右の比較とか対立とかではない。思想対立は、ないがしろにすべきではないが、それは別の機会で語るとして、今は置いておく。
この情勢において、日本が再び戦争の出来る国になる(一部は既になっているわけだが)のが、現時点で私の2番目に恐れることだ。
では1番目は何かというと、この社会が何ら変わらぬまま続いていくということ。人と人とが傷つけ合うことを互いに許し合い、心の弱い者が虐げられていく、この社会が死ぬまで続いていくということ。
「うみねこのなく頃に」で、「(鏡の)割れぬ今日までと同じ日々が明日も明後日も続こうぞ。それは永久に永遠に。」というセリフがあるが、このときの紗音の絶望が、私の抱いている感覚と近いだろうか?
社会が無神経なままであるなら、無神経に耐えられる人間だけで革命でも戦争でもやっていればいいのだ。
無神経に苦しみながら、自分の中にも無神経さがあるのが、また苦痛の種だが、そうした潔癖さで身動きが取れなくなっている間にも、そんなことを気にしない人々が右へ左へ社会の舵を切ろうとしている。
それはそれで一定の評価すべきことではあるのだが、船酔いと戦うのに精一杯な私としては、振り落とされないか心配で仕方ない。もう振り落とされかけているのかもしれない。

続いて、障碍に関すること。
これを聞いて、水俣病のことが浮かんだのは私だけではないと思う。
大学時代に患者の手記を読んで涙した記憶が、今や薄れて久しいが、学んだことの幾つかは今も根付いている。
水俣病は有機水銀中毒であり、後々の世代まで影響を及ぼす。つまりは、障碍児が生まれる確率が高くなる。
それを以って運動を行うことに、障碍者の一部が反論した。
「障碍児が生まれることを“被害”とするのは障碍者差別ではないか」と言うのだ。
いつの時代も、思慮の足りない妄言を平気で口にする輩はいるものである。そうした考えが浮かぶところまでは普通だが、それを口にするか? しかも、患者に向かって?
自然発生的に生じる障碍については存在を肯定するのが人道だが、その発生率を第三者の工業的な行為によって高められるということまで肯定しろというのは、あまりにも酷い。
フィクションならともかく、現実では近親相姦あたりがボーダーラインだと思う。私は、本人らの合意なら、あるいは互いに肉親と知らずに子供を設けた場合は自然発生に含めるべきだと思っているので、肯定する方であるが、このあたりは賛否両論なところだろう。
話を戻すが、障害者であるからといって、何を言ってもいいわけではない。これは、被害者だから何を言ってもいいわけではないのと似ている。もちろん健常者の中にも、思慮の足りない馬鹿は大勢いる。
障碍について物を言うなら、障碍者で“あろうがなかろうが”、考えて発言しなければならないということだ。
もっとも、私も、あまり思慮が深い方ではなく、精神障害者の友人をはじめとする各方面からの受け売りに過ぎないので、あまり偉そうなことを言うと自分に跳ね返ってくるのだが・・・。
しかし流石に、高校生の切実な叫びに対してズレた暴言を吐くような、無神経な馬鹿とは一緒にされたくない。
こうした連中がいると、障碍者全体へのイメージが際限なく悪化する。精神障碍者の私まで「だったら世界中の障碍者を殺せばいいよ」という気分になってくる。健常者であれば猶更だろう。
それを前提にした上で補足するが、運動を行うときに“あたかも障碍者を差別してると捉えられかねないような”配慮の足りなさがあったのなら、その分だけは、怒りから差し引いてほしいと思う。
これは障碍のことだけではない。「私たちは子どもが生めるの」という問いかけは、“あたかも子供を産めないことが不幸であると捉えられかねないような”ニュアンスを含む可能性がある。そしてそれは、“子孫を残さない人間は価値が低い”という思考に繋がる可能性を生み出す。そうならない配慮は必要だろう。
もちろん、水俣病のときと同じで、「子供を産むかどうかという選択肢を第三者の工業的な行為によって潰される」ことが、許されないことなのだ。そして、そうした苦しみの中にある人々に対して、具体性に欠けた一般論を展開することは、かなりの非人道的な行為であると思う。
それにしても、この無神経な物言い、以前に友人が批判していた団体の輩ではないのか・・・?
苦しんでいる精神病者の気持ちを土足で踏み躙るような連中なのだが、何となく物言いが似ている気がする。

具体性の話が出たところで、記事の続き。

(以下、抜粋)

赤坂:現段階では、“被曝=即、死”というわけではない。被曝によって、あらゆるリスクが高まったかもしれないけれども、果たして今まで、日本に放射能のリスクは一度もなかったのか。太平洋で十何回と行われた核実験は? チェルノブイリの原発事故は? 福島の事故で確かにリスクは高まったかもしれない。でも、一部の人たちが、福島の放射能のリスクを肥大化させて、そのまま危険として提示することで、どれだけ、福島の人たち、被曝した人たちを追いつめているか。それは、放射能のリスクを過小に見積もって「安全だ」ということと、パラレルになっていると思う。僕にとっては、反核の声を上げることは何の意味もなくて、実質的にそこで苦しんでいる人たちと共に何ができるのか、と。

(以上、抜粋)

これこそが、本当の意味での反核・反原発の声である。
赤坂氏は自分を過小評価しているのか、皮肉や嫌味で言ってるのか、それはわからない。だが、ここで述べられている疑問は、そのまま事実である。
原発の存在が、いわゆる“先進国”に癌が多いことと密接に関係してると聞けば、他人事ではないと感じる人は多いと思われる。放射能は“フクシマ”だけの問題ではない。
米ソ時代の水爆実験の数々が行われた時点で、既に科学者による調査で、「これ以上は危険」という結論が出されている。数十年も前の話だ。深刻な汚染は、とっくの昔に世界レベルである。日本が“唯一の”被爆国だった事実は、私が生まれる前に無くなっている。劣化ウラン弾の件を挙げてもいい。
そういった話を聞き、子供の頃から放射能に怯えながら過ごしてきた私にとっては、“危険”というのは単なる“事実”でしかない。もはや恐怖感が麻痺している。
チェルノブイリ原発事故による汚染の広大さは語るまでもないが、他にも、アメリカのスリーマイル、そして日本では東海村が記憶に新しい。
JCO臨界事故が起きた当時、私は写真展に携わっていた。汚染区域に立ち入って、撮影されたものだ。無人でモノクロの写真に、虚無的な恐怖を覚えた記憶がある。中性子線に関する知識や、臨界事故が起きれば早い段階で遠くまで逃げるべきだという知識は、このときに獲得した。
しかし重要なのは諸々の知識よりも、全体を掌握して語れるかどうかである。福島のことを語るとき、あらゆる原発や核実験についてまで言及しなければ、嘘である。福島のこと“だけ”を語るのは、事実を語りながら真実を隠蔽する行為であり、極めて悪質な“嘘”だ。虚偽だ。
ゆえに、という但し書きも不要だが、赤坂氏の発言は原子力に関して興味関心のある全ての人に聞いてもらいたいくらいのものだ。短い文章の中に大切なことをコンパクトにまとめている。わかりやすく、精緻だ。
こういうことが言える人が、失望を感じる“反核運動”は、おそらく本物ではあるまい。知識や思慮の足りなさを非難しすぎるのは別の悪い側面が出るので、私の立場から運動の昂揚を否定することは出来ないが、いずれにしても今後は運動の精度を高めていくことが要求される。盛り上がるだけでは駄目で、精度が必要だ。

私自身は、やる気が出ない。原爆ブラブラ病ではないが、体力と気力を削るのは精神病も同じだ。
それに加えて、恐怖感の麻痺。そして何よりも、迂闊に何かの運動に携わることによって、被害者を追い詰めることに加担してしまわないかという、強い懸念がある。
被害者の発言が絶対に正しいとまでは言わないが、被害者の“認識”は絶対に正しい。被害者に憎まれるようでは、それが意識的な憎まれ役であろうが、無意識の無神経であろうが、全くの害悪でしかない。
精神病になる前と比べてアンテナの精度が著しく落ちているのだが、ともかくアンテナに引っかかるまでは、“ピンと来る”ような運動でなければ、参加しないし、主催もしない。それもまた、怠惰と何が違うのか、行動しない言い訳ではないかと思いながら、どうにも晴れない気分で原子力を考えている今日この頃。

最後に、作品紹介。2008年から連載中で、最近はアニメ化もされた、「コッペリオン」だ。
この作品について語り出すと長くなるので、内容については読んでいただくとして。
ひとつ挙げることは「他人事ではない」ということだ。これを読んで被災者が何を思うか(思ってるか)は定かではないが、少なくとも「他人事ではない」という点について高く評価されるべきものだと思う。放射能の恐怖は世界レベル。“世界滅亡の危機”が、そのままの意味ではなくても大袈裟ではないほどに危機は深化している。
ただし、放射能の危機を訴えることは、私にとっては単なる事実の羅列に過ぎない。「たかが滅びるだけ」という感覚は、だいぶ前から私の中で支配的である。
他人事ではない。他人事ではない。キーワードは、いつもコレだ。他人事として携われば、被害者を深く傷つける結果に終わる。それで“終わり”だ。二度と被害者からは信用されない。子供の頃から原発や核兵器のことを考え、怯えてきたことで、ひとつメリットがあったとすれば、特に何も考えなくても自然と「他人事ではない」という姿勢で携われたことである。(これをメリットと呼ぶのは違う気もするが)
連載開始の時期や作中の雰囲気からして、おそらく作者はJCO臨界事故を頭に入れてるのだと思うが、まさか連載中に再び破局的な原発事故が起こるとは予想外だったのではないだろうか。もはや「コッペリオン」は、単なるサイエンス“フィクション”に留まらない。作者は大きな任務を背負った。
あるいは、「やっぱりこんなことが起こったか」「警鐘が間に合わなかったか」と思ったかもしれない。事故が起こるのは必然だと思うのが、普通の感覚だ。「まるで事故を起こす為に作られているような構造」なのだから。
事実、“小さな”事故なら何度でも起こっているし、作業する労働者が被曝していることは“事故”ですらない。被曝しているのに、事故として扱われないのだ。
原子力は国家から金銭的に優遇されているので、原発を稼動させるほど企業は儲かる。そして電気を国民に売って、「お前らは共犯者だ」と脅迫する。強固なシステムだ。
火力は火力で燃料枯渇などの問題もあり、やはり事故があるが、だから原子力というのは短絡が過ぎる。原子力にかける予算を地熱に回せば、極めて効率的な結果が得られるのは間違いない。
何故なら、基本的に“発電所”というものは、つまるところ“巨大な湯沸かし器”だからである。水を沸騰させて、その蒸気でタービンを回すのだ。磁石とコイル(鉄芯が入ってると猶グッド)で作る理科の実験装置を、大きく高速にしたものであり、基本的な構造は何も変わらない。湯を沸かす部分が色々あるのだ。
要するにタービンが回れば何でもいい。水力は流水でタービンを回している。(類例:水車、潮汐、波力)
地熱は地球そのものが持っている熱なので、ほぼ無尽蔵と言える。火山に感じる脅威は、そのまま地熱発電への期待となるのだ。安全に関することなど、まだ課題は山積みであるが・・・。
それから、例外的にタービンを回さない、太陽光発電。これはSFで、クリーンなエネルギーとして示されたりする。実際にはコストパフォーマンスが釣り合ってないと聞くが、それも過去の話になりつつある。地道に性能をアップさせているようなのだ。ここでもSFがフィクションから現実になろうとしている。
今後「コッペリオン」が、どのような結末を迎えるのかはわからないが、原子力に代わるエネルギーとして、地熱と太陽光が有望なのではないかと予想する。何にせよ、原子力につぎ込んだ10分の1のカネでも、地熱と太陽光につぎ込んでみるべきだろう。それだけの価値は十分にある。


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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
「ひきこもり」というと、どうしても見下し、かわいそうだから助けなきゃ的な上から目線になりがちです。しかし「ひきこもり」の問題に深く携わっている人の意見を聞くと、なるほど納得です。
昔の「新人類」などという言葉もそうですが、政治家や評論家が語り、マスコミが言葉をつくる若者いじり。でもバカ丸出しの年配もいるわけだから、近頃の若いもんはというのはおかしいです。
電車でのバッドマナーを遠くから見て若者全体を批判する。実は若者と語り合ったこともない人間が批判していただけだった・・・そんな鋭い指摘を聞くと、やはりその分野に真剣に取り組んでいる人は強いです。
だから使命があるのだと思います。自分はこれで行くという取り組むべきテーマを持つのも大事だと感じています。
たとえば公害問題は一生戦う覚悟がないと、いや、暗殺される覚悟がないと取り組めない。人間の体は一つで時間は有限となると、あれもこれもと欲張るよりは、自分はこれで行くという使命感が重要で、おそらくどんな社会問題でも深入りすれば一生かかるでしょう。
ブラックホーク
2014/01/02 01:15
笑点の話はショックですが、ありがちとも感じます。昔テレビで放送したチェルノブイリの特集は正視できなかった。目を逸らしてしまった。あれを見てしまうと迷わず原発ゼロを目指すべきだと思います。ただちにでなくても、とにかく急いで原発ゼロを目指したい。ギャグなんか絶対に浮かびません。
デモには苦い経験があります。私はパワハラ撲滅の運動というか、闘争に参加し、行動を共にしましたが、デモが政府打倒のデモでびっくり。パワハラ撲滅を願う人が、みんな打倒政府とは限らないのに、私の政治的意見を聞かずに参加させてしまうところに脆さを感じました。
共感できなければ人は離れていきます。私に主義主張なんかないと思ったとしたら軽視でしかない。
個人名は私も書かないようにしています。喉まで出ていますが、誰でもわかる書き方をすることもあるけど、固有名詞を出しての批判はしません。
弱い者が虐げられていくこの社会がずっと続いて何も手を尽くさず放置すれば、かなり危険なので、何とかしなければいけないと思っています。
拝一刀も暴れん坊将軍も、共通は剣の達人ということ。今は武芸(文芸)を磨きます。
ブラックホーク
2014/01/02 01:32
>ブラックホークさん
引き籠もった人間に深く関わっていると、その人自身が見えてきて、引き籠もってるかどうかは主要な問題ではなくなってくる・・・私も、似たような事例に携わっていたことがあり、実感としても納得できます。
就学や労働に関して、過ぎ去った時代の感覚のままだと、ズレが生じておかしなことになっていく。そして理解不能だと諦めて、「新人類」や「エイリアン」とレッテルを貼る・・・それらの言葉が、また他のところで独り歩きしていると思います。電車やバスでマナーの悪い若者を見たとき、氾濫してるレッテルが頭に浮かんで、思考停止へ導いている。理解不能だから対話せずに批判して構わないという理屈・・・これは年輩と若者の関係だけでなく、表現の規制など随所であると感じます。
ふと思いついたテーマでも、考えを進めるうちに、思わぬ深みまで到達したりしますが、本気で取り組んでいけば、どんなテーマでも深さと幅広さを獲得するのだと思います。小学校では、いち公害病としてしか習わなかった水俣病ですが、そこに携わっている人々は、まさに生涯をかけて取り組んでいる。だからこそ惹きつけられるのでしょう。
アッキー
2014/01/02 23:30
チェルノブイリは確か中学生か高校生のときに映像で見たことがありますが、人間の体が焼け爛れていくシーンが強烈で、反原発の動機をいっそう強くしました。
笑点は私もショックでした。他の話には怒りを感じますが、これに関しては気分が沈みます。多分、いじめをネタにされていたら、私も怒ったかもしれませんが、どうしても当事者とは温度差があるのかと思うと、連帯は被害者同士でも難しいと痛感します。
運動や闘争は、連帯が上手くいかずに運動が瓦解することが、敵に暴力的に潰されるよりも圧倒的に多く、主導者は責任重大・・・優れた指導者が必要なのだと、その度に思います。組織の中に、対話の習慣を作っていける指導者が。
末端の立場からだと、なかなか対話しようという雰囲気にしにくく、対話を試みても取り合ってくれないと、やる気も失せていく。そうした積み重ねで、活動に嫌気が差しました。
個人名や作品名をズバリ書くよりも、そうとわかる書き方をする方が、かっこいいと思いますし、同じ思いの人を引き付けやすいと思います。それも対話の技法のひとつだと思っています。
虐げられてきた人々と共に戦おうとするとき、大きな思想だけで人を集める時代ではなく、細かいところ、日頃の対話の積み重ねが、かなりのウェートを占めていると、意識するようになってきました。文学で活動する意義も、そこにあると感じます。
アッキー
2014/01/02 23:30
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
大晦日から昨日まで、高熱によりダウンしていましたが、
何とか復活しました。

思考停止ではなく、病気の症状なんですが・・・
数人でつるんでる若い人を街中で見ると「不良だ!こわい」と思ってしまう私。
いまどき不良ともあんまり言わないですかね。。。
認知の極端な歪み!!のせいで、かなり神経をすり減らしながら生活しております。
私の場合は病気の症状ですが、同じことが社会にも蔓延しているのかも、ですね。
生活保護はずるい、なまけもの、とか。あくまで例ですよ。
何の色眼鏡もなく世の中を見れたら理想ですよね。あ、私は無理です(笑)。
若者のグループを見ただけで怖がっちゃうんですから。。。

アッキーさんに私のブログのほうにもいらしてもらって、本当に感謝しています!
拙い文章しかコメントできませんが、今年もよろしくお願いしますね!(*^_^*)
とちの木
2014/01/07 17:45
>とちの木さん
あけましておめでとうございます。私も風邪を引きかけて変な息切れが続いていましたが、持ち直してきた今日です。
街中で若者・・・凄くわかります・・・。特に若い男性を見ると、反射的にビクッとなってしまいます。近所の公園でボール遊びをしている子供とかも恐いです。何か嫌なことを言われるのではないかと怯えながら、早足で通り過ぎる私・・・。
1回でも前例があると、似たような状況に反応してしまいますねー。社会的な空気も、1つの極端な例が全体のイメージを操作してそうです。犯罪を犯した人が生活保護を受けていたとか、生活保護をネタにした詐欺とか、そういうものを報道することで、どれだけ生活保護者が肩身の狭い思いをしているのか。記事で挙げたことは、そこらこしこに蔓延してる社会・・。
むしろ自分がかけている色眼鏡の種類をわかっておく方が堅実だと感じています。今更、外せないですよね。人生経験は接着剤。

というわけで、今年は何色の年になるかと想像しながら・・・今年もよろしくお願いします!

八武「むふふ、ピンク色。」
佐久間「いや、むしろ黒だ。黒光りする男のロマンを・・」
山田「待て。」
佐久間「アッキーは虹色かな。二次創作だけに。」
アッキー
2014/01/07 22:26

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