佐久間闇子と奇妙な世界

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zoom RSS 進撃の大西巨人

<<   作成日時 : 2014/08/15 00:00   >>

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ほとぼりも醒めたと思うので、そろそろ追悼文でも。(追悼?)

元々は、アニメOP「紅蓮の弓矢」のMADで「神聖喜劇」やりたいなー、という話でした。
それがまさか追悼文のタイトルになるとはなァ・・・。

↓紅蓮MADが流行ってたので(例)

進撃の吸血鬼
紅蓮のまどか

私も色々とアイデアだけは考えたんですよ。
思いつくマンガやアニメを、片っ端から脳内で・・・頭の中では出来てるんです状態。
そのうち幾つかは実際に作られていて私歓喜。やっぱ考えることは同じね。

きっと「神聖喜劇」とのコラボも、とっくに誰かが考えてるんだろうなーと思いつつ。
マンガ化の案が出たときに、内心で「無謀だなぁw」と思いつつ、しかし快く承諾した彼ならば、このMADを観てどう思うだろうなぁ・・・などと想像していたが、それは永遠の謎となった。

今年の3月12日に、大西巨人氏、永眠。大往生である。
きっと楽しんでくれたと思うし、どういう反応が返ってくるにせよ、MADを観せたかった・・・。
世の中、ままならないね。


半年近く経った今になって、ようやく追悼(?)記事を書くのは、別に8月15日に合わせたわけではない。
亡くなった直後には、熱心なファンを名乗る連中の、愚にもつかない文章が、新聞その他を賑わしていたので、とても書く気にはなれなかったのだ。

ある作品や作家を評価するとき、作品の価値を語るとき、どうしてもファンの良し悪しを頭から外せない。
例えば、古典には優れた内実のものも多いが、ファンの多くがナチュラルにマンガやアニメを見下してくるので、それが古典を読む気を著しく減衰させる。
「あんな奴らと同じものを読みたくないし、感動を共有したくない」ってやつだ。

作者が死ぬと、ファンを名乗って下卑た論調を撒き散らす輩が出るわ出るわ。
既に原作者が死んでいるのだから、なるほど確かめることは出来ない。
しかし、「いかにも大西巨人が嫌いそうな連中だ」と、思ったのだ。

それはつまり、こういうこと・・・。

〜コミックス神聖喜劇1巻あとがきより抜粋〜

それはちょうどこういうことよ。作家の○○○○が十二月七日(日米開戦前日)に反軍国主義とか反戦とか関係なしに、芸者を連れて田舎の温泉宿に行ってたんだよ。戦後になったら、いかにも反戦的な意味で芸者としけ込んでいたと言わんばかりだったが、そんな奴ばかりいたから戦後の日本がダメになったんだよ。そういうヤワな心で革命が出来るはずがない、だから今のように○○のようなのが票を集めるようになって。いつの世の中にも、つまらない人間が多いと思うね・・・・・・。

〜以上、抜粋〜

大西巨人が死んだ途端に、いかにも大ファンですみたいな顔をして、作品そっちのけで“若者批判”に、“サブカルチャー批判”をする奴ら。「人間としてしょうもない奴としか思わんな。」

そんな奴ばかりだと、作品はダメにされるね。
これから大西巨人の作品の価値が下がっていくのかと思うと、げんなりするね。

今のうちに書いておくけれど、私が死んだ後に、「アッキーさんの大ファンです!」みたいな奴が現れたら、そいつは私がヘドが出るほど嫌ってる奴に違いない。
私のことを最も理解しているのは、2つ年下の弟であり、彼より出しゃばった発言をする奴は、確実に私が嫌いな奴だと見なしていい。ファンの皮を被ったアンチ。

私が「神聖喜劇」の存在を知ったこと自体、21世紀になってからだけど、それは良かったかもしれない。
どうしたって私は、大西巨人のファンの中では末席の1人だろうし、どちらかというと大西ファンというより神聖喜劇ファン(他の作品は未読)だ。だからこそ気負うことなく気楽に楽しめるのかもしれない。

なまじ旧世代の連中は、頭も旧世代のままの奴らが多い。
大西巨人氏の優れたところの1つに、あくまで戦前の人間にしてはと但し書きをつけるが、若者批判が極めて少ないことを挙げようか。つまり旧世代でありながら頭は新しい。
上記抜粋の文章にしても、1人目の批判対象は同時代の作家であるし、まず同時代の人間について物を言う姿勢は、そこらかしこで貫かれている。2人目にしても、いわゆる“若者”ではない。

そもそも戦前の人間でありながら、自分の小説をマンガ化する試みを持ちかけられたときに、快く承諾するとか、私の常識では有り得ないことだった。
なにしろ、私の父親くらいの世代でも、マンガに対する酷い物言いが当たり前で、それが高じて決定的な決裂まで至った人もいる。あの人とは二度と話をしたくない。
まして大西巨人氏は、私の父親の、そのまた父親と同世代である。それが、マンガ化に対して快く承諾したばかりか、きちんと指摘して修正に携わっているというのだから驚きだ。放任ではないのだ。

〜再び抜粋(コミックス1巻あとがきより)〜

漫画『神聖喜劇』は、小説『神聖喜劇』の忠実な漫画化を試みた作品だね。しかしそれは同時に一個の独立した作物であり、言うまでもなく、原作と全く同一ではなく、岩田君、のぞゑ君による原作内容の取捨選択および解釈が加えられて出来上がっている。したがって、そこには、原作者の想うところとはおのずから隔たりがないこともない。例を挙げると、登場人物の風貌などについては、実際に出来上がった絵柄と、原作者の私が頭に思い描いているイメージとの間に違いがあるよね。しかし、たとえそうであっても、それらは漫画作者に裁量に関わる問題だから、私として、そこに口出ししたり干渉したりする気持ちは原則としてありません。
一方、漫画とは、一定のデフォルメやカリカチュアライズが施される表現形式なので、隅から隅まで完全なリアリズムによって貫かれるものではあるまいから、そのことと、作中におけるリアリティーの追求とは異なる次元の問題となるだろう。『神聖喜劇』の舞台は今から六十年以上前で、もちろんそれは岩田君やのぞゑ君の生まれる前に当たるわけなので、両者が当時の状況を実体験として持ってるはずはないね。
たとえば、作中に登場する兵士の髪型、服装、動作、あるいは舞台となる兵舎の構造等々については、原作の文章だけに基づいて完全に再現することは困難だろうから、いろんな写真資料などに基づいて作られたものでしょう。けれども、古い資料の場合は、不確実だったり不鮮明だったりする場合も少なくなかろうし、結果、漫画の中の絵柄や台詞については、実物・実態を知っている私から見ると、おかしな箇所、あり得ぬ箇所がなかなか目に留まった。これら私の気がついた点については、この十年間の折々に、また、今般の単行本化に当たっても改めて、私として、出来る限り指摘し、のぞゑ君もそれらの面倒な修正を実行した。
ただ、そこには、漫画という枠組みにおける限界性や特殊性も存在していて、決定的な誤りについては修正されているものと信じてはいるが、細部に関して完全に実際との一致・整合が徹底されているとまでは言い切ることができない。これらの遺漏・不備については、原作者として、読者諸氏の御理解と御寛容を予めお願いしておきます。

〜以上、抜粋〜

わあ、詳しい・・・! マンガに詳しい人が書く文章だ・・・!
マンガを貶してもいないし、かといって媚びてもいない。言いたいことはきちんと言い、しかし独り善がりでなく、淡々と冷静に言葉を連ねている。

この文章は現代文学に当てはめても、新鮮さを失わない。
マンガ化やアニメ化にまつわる様々な要素を、簡潔にまとめていると感じた。
なるほど、このようにまとめればいいんだなと、私の方が勉強になった。やはり私もまだまだだなァ。




さて、そこで「進撃の巨人」である。
単に大西“巨人”だからというわけではなく、様々な共通点や視点の酷似が見受けられる。
そのひとつは「軍隊のリアリティ」だと思うのだが、どうだろうか。

表面だけ撫でて自衛隊讃美だとか批判ぶっている左翼モドキが、どれだけいるのか知らんが、そんな連中は放っておくとして・・・。
「軍隊というのは実社会と隔絶された特殊な環境ではない」ということだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いやになる。」
「営門を潜って軍服を着れば、裸の人間同士の暮らしかと思うとったら、ここにも世の中の何やかやがひっついて来とる! ちっとも変わりはありゃせん!」(冬木照美)

この叫びが端的に示しているが、軍隊も実社会の延長線上に過ぎない。
もちろん、軍人という仕事の特殊性を無視するわけではないが、そうでなく、“非戦闘員”だとか“カタギ”だとか“市民”だとか“一般社会”だとかは、軍人を人でなしと罵れる程お綺麗なのでございますかと、そういうことだ。

「めずらしいか。人を殺したちゅうとが、そげんめすらしいか? 人殺しがめずらしゅうして、お前らみんなが化け物ばし見たごたぁる目つきで班長を睨みつけとったとか? うぅ・・・めずらしいなら、ようと見とけ。ようと睨んどけ。隠しゃせんぞ。この手じゃ。この手で俺が何人も何人も殺してやったとじゃ!」(大前田文七)

大前田は、この後で、自分を棚に上げて冬木を揶揄したりもしているのだが・・・冬木に対してでなければ、そして殺人に限定しなければ、なかなかに鋭い。
冬木の経験したことは、重大なネタバレになるので詳細は伏せるが、差別に関わることである。

地獄のような・・・という表現を無闇やたらと使いたくはないし、まして実際に地獄に行った経験は無いのだが、地獄のような小中学生時代を送ってきた。
軍隊は更に過酷なのだろう、現代は平和な方なんだ・・・などと子供心には思い込んでいたが、なんのことはない、同じである。どちらが過酷とかではない。
学校も、軍隊も、嫌な奴がいて、理不尽な規則に従わねばならず、いじめも自殺もある。
つらつらと文章化されている分だけ、軍隊の方がマシかと思ったくらいだ。実際マシでもなかろうが。

軍隊が理不尽で酷いというのは、間違ってないだろう。
しかし、この社会全体が理不尽で酷いということも、忘れてはならない。
死の危険だって、軍人の方が高いとは・・・言い切れないのだ。

念の為に言っておくと、私は別に軍事にカネを注ぎ込めと言いたいわけではない。
むしろ、そうしたことを躍起に主張する連中は好きではない。異口同音に自らを現実主義者と称し、他者を貶める発言を繰り返すのだが・・・彼らの主張にリアリティを感じたことは特に無い。

「戦争とは殺して分捕ることである」

およそ反戦論・軍事論で、これに勝るリアリティは存在しない。
平和の為だろうと何だろうと、軍備増強を主張する人間は、人を殺したいか、保身か、あるいは自殺願望があるか、そのいずれかでしかない。

私は人を殺したいし、保身の感覚も強いし、自殺願望もある。(←こういう奴を政治家にしてはいけない)
だからこそ軍備増強など唱えない。人を殺すのに国家の後ろ盾は要らないし、保身に走るのに大義名分は要らない。死ぬときは1人で死ぬ。その程度の矜持は持っている。

ならば、「お前が称賛するキューバはどうなんだ」と訊かれたら、軍事である以上はそうした性質から逃れられることはないと答える。正直に。
私は何も、キューバや南米を、一から十まで称賛してるわけではない。キューバに住みたいとは思わないし。

それを前提として・・・日本のような、市民を弾圧し得る暴力機構と、市民そのものが外敵に対抗し得るキューバを、同一視するわけにもいかない・・・と、答える。
正直、ケチつけようと思えば際限なく出来るので、ケチつけたいだけとわかったら、もういいや。何も答えない。


話を元に戻すが、「進撃の巨人」で描かれている軍隊は、とかく“人間らしい”。いろんな意味で。
よくある軍隊モノあるいは特殊部隊モノでは、軍隊の特殊性を際立たせる方面に偏っており、私はそういうのも好きなのだけれど、まあ確かにリアリティは無いよねと思う。純粋に娯楽として楽しんでいる。
そのあたりは、大西氏とは感覚が違うのだけれど、それはともかく。

巨人という謎の生き物と戦う“特殊な”集団・・・という性質は、話が進むごとに減じられていく。
ジャンやアルミンの存在が個人的には大きいのだけれど、全体的に人間味がリアリティを伴って描かれている。
キャラクターのバラエティーも富んでおり、それは作者の「どちらかに寄って、一方的にえらそうなことを言いたくはないんですよね」という姿勢が、良好な形で貫かれている。
良好な、というのは、「一方的な人間がいてもいいし、それを魅力的に描くことも出来る」という意味でもある。
例えば主人公(ヒロイン)のエレンなどは、いい例だろう。・・・ええ、ヒロインです。何か間違ってますか?

「私は屈しない」とは、イルゼ・ラングナーのセリフであるが、決して屈しない主人公像が共通しているのは偶然ではないだろう。

「俺にはわかる。コイツは本物の化物だ。“巨人の力”とは無関係にな。どんなに力で押さえようとも、どんな檻に閉じ込めようとも、コイツの意識を服従させることは、誰にもできない。」(リヴァイ・アッカーマン)

「・・・班長の目は節穴と違う。東堂がどげな男か、班長が知らんと思うなよ。」(大前田文七)

エレンに殴る蹴るの暴行を加えたリヴァイ兵長が、エレンの“激情面での”最大の理解者であるように、東堂をボコボコに殴る大前田が、やはり東堂の理解者であるのが面白い。何このシンクロ。

そして同時に、東堂、エレン両名とも、作者からは未熟さを指摘されているというwwwワロタwww
まあ、どっちかとうと周りの連中の方が人間味あるよねって話。

人間らしさとか、人間味だとか、何だか常套句めいてきたが、それらの意味するところは狭いものではない。
「神聖喜劇」は、戦時中を描きながらも、あくまで“喜劇”(コメディ)である。読んでて笑わずにはいられない。
いわゆるアレだ、「真面目なほど面白い」とか、そういうのに近いだろうか。

読めば読むほど、時代を超えてシンクロを感じずにはいられない。読み比べ、超オススメ。
何かミカサとか「私はエレンの為に死すべきである」とか思ってそう。

挙げていくとキリが無いのだが、55話の拷問つながりで、睾丸の話を紹介する。
・・べ、別にそういう話が好きってわけじゃないんだからね(殴

軍隊の法令の中に、「睾丸ハ左方ニ容ルルヲ可トス」というものがあるという。
この時点で既にニヤニヤしている(←変態)のだが、それについて真剣に語り出す(のっぴきならぬ事態になりかけているくらいだから、至極真面目だ)というのが、もう素晴らしいね。
詳しい内容については読んでもらうとして・・・まあ、その、ちょっと品の無いことも書かれているので注意ですが。

要するに、ズボンが股のところで2つに分かれているのだけれど、睾丸をどっちに寄せておくかについて規定があり、それについて軍人たちが大真面目に議論しているのだ。(笑いも起こるし、和気藹々な雰囲気もある)
なんと愛すべき人々だろうか。
普段とは異なる面が見られて、何だか得した気分だ。

こうした“喜劇”は「神聖喜劇」の随所に見られるし、そして「進撃の巨人」で随所に見られるものである。
サシャの腹痛とか、司令の性癖とか、ミカサのヤンデレとか、兵長の潔癖症とか、黒ミンとか、etc・・・
恒例の嘘予告は言うまでもないし、とかくコメディ要素が散りばめられている。見習いたい、この喜劇。
最新巻ではケニー師匠がノリノリで、流石の兵長もタジタジだ。


理不尽に人は死んでいくし、ろくでもない残酷な世界だ。
しかし、それでも笑ったもん勝ちである。そう思えない精神状態のときも多いけど、ひとつの真理だ。

「世界は真剣に生きるに値しない」と東堂太郎は言った。
それでいいと思う。世界の全てを愛せなくていい。世界の全てに真剣にならなくていい。
世界は真剣に生きるに値しないが、だからこそ真剣に生きることは、他の誰でもなく自分にとってだけ価値があるものなんだろう。

論理的に妥協せず、疲労するまで考え抜き、問題に全身全霊で向かうのが“神聖”なのだし。
どれほど世界が残酷でも、好きなマンガを追い続ければ、世界は“美しい”のだし。
最後に笑っていられれば、“喜劇”であるのだ。


大西巨人氏は、きっと最後に、笑って死んでいったのだと思っている。




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