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zoom RSS 「希望は戦争」は、もう古い? (週間金曜日1017号)

<<   作成日時 : 2014/11/28 00:00   >>

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「希望は戦争」と発言した本人が、そう感じる時代に入ってきた。
確かに当時としてはセンセーショナルに感じた私も、今では悪い意味で慣れてしまった感がある。
たまに秀逸な記事が出るから「週間金曜日」を嫌いになれない。

実は私、赤木さんの顔を今まで知らなかったのだが、写真は温厚そうな印象で、言ってることも穏健に感じた。
それでいて鋭さは損なわれていないあたりが、この8年間の彼の思索の深さを容易に推察できる。

赤木さんの言う「希望は戦争」というのは、暴力的・過激さを求めるものではない。
そもそも暴力的で荒んだ現状で、戦争“のみ”反対することこそ、対話を放棄した暴力的な行為であると言える。
私がよく言う「教室は戦場」という言葉に通じるものを感じるが、戦争“のみ”反対する寝言文化人たちへの痛烈なアンチテーゼであり、むしろ本質は反戦の側にある。

そのことを承知していた私から見ても、やはり赤木さんは温厚な人に思える。
修羅場を潜ってきた人間の温厚さ、とでも言えばいいのだろうか。
おそらく雨宮さんも、その温厚さに憧れを感じていることだろう。
私の性質は雨宮さんと同じ側で、痛い目に遭うほど刺々しくなるのだ。

愚鈍から来る温厚さなのか、器の大きい温厚さなのかは、ちょっと話を聞けば判別できる。
かつて赤木さんが「引っ叩きたい」と言ったのが、まさに“愚鈍な温厚”であるだろう。

同じように、刺々しさにも、美しさを感じる深いものと、陳腐で不快なものとがある。後者はロクに苦労してない印象を受ける。
雨宮さんは前者の側で、相変わらず美人だった。洞爺湖サミットのときに会っているのだが、近寄りがたい雰囲気があって綺麗だった。
よく“近寄りたくない”と言われる私とは大違いだが、あまり考えると落ち込むのでやめとこう・・・。



“声をあげる”ことが難しくなっている。
声をあげれば、バッシングを受ける、息苦しさ。
このブログも無縁ではなく、何かと噛み付いてくる人がいて、辛抱して対話を試みた甲斐もなく決裂した。
虚しい。非常に虚しい。

まずいのは、そうした私が次から、「こいつは駄目だな」と最初から決めつけてしまいかねないところにもある。
優しさとかではなく、自分が対話を放棄するような人間になるのが嫌なのだ。
しかし対話を試みても傷つくのでは、どちらを選んでも不正解でしかない。

貧困についてだけでなく、多くの物事について当てはまる。
私の目から見れば、貧困“のみ”に焦点を当てているようでもヌルい。
そんなものは、戦争“のみ”反対している人々と大差ない。
最初は貧困問題をメインで扱っていた雨宮さんが、もっと広く、全面的な展開を遂げていってるのも、そうした欺瞞を拒絶し続けたことの現われだと感じる。

あくまで“貧困問題”は、具体的に考えるベースの1つであることを踏まえて話を進める。
一面的な視野の弊害を、貧困問題は如実に教えてくれる。

いわゆる“貧困対策”は、いわゆる“若者層”を救済することへ焦点が当てられている。
あけすけに言えば、「オトナはもうダメだから、若者に未来を託そう」という思考だ。
これは、「イマドキの若者はなってないから、子供たちに未来を託そう」という思考と根は同じだと思う。

何とも無責任で、何とも身勝手である。
若者にも子供にも無限の可能性なんて無いし、未知は文字通りに未だ知られてないことでしかなく、それが素晴らしいかどうかは別問題だ。

私は、大人こそ子供より多くの可能性に富んでいると考えている。
それも別に、良いとか悪いとかではなく、大人の方が経験豊富であるという事実を述べているに過ぎない。

話を元に戻すが、救済されないまま“若者”の枠からあぶれてしまった大人たちについて、論じることすらままならない世の中になっている。
最初の「声をあげるのが難しい」ということと繋がっているのだが、「いい大人」が苦しみを訴えるのは、みっともないことなのだろうか。

そういう感覚が私の中にも無いとは言えないし、父親などは「40過ぎてガキのままな奴は誰にも相手にされない」と、キッパリ言ってのけている。
ハガレンの作者なども、悔しさを訴える人に対して「子供か」と吐き捨てている。

確かに、「いつまでも子供みたいなことを言ってられない」のだろうとは思うのだが・・・。
私自身も含めて、左派っぽい人々の多くが異口同音(同心?)にそんな感覚を持っているのは、何となく、ファシズムめいた不穏な空気を感じてしまう。

矢口高雄のマンガに、文字通りに“相手にされない”ことで、刃物で自損した人の話が出てきていた。
それに対して矢口さんは、同情的な見解を述べ、また、「キレる若者」についても、よくあるような俗論ではない、鋭い考察を述べている。

つまり要するに、世代に限らず、“居場所の無さ”・・・「週間金曜日」の記事では“承認欲求”という言葉が用いられているが、それが満たされないことが殺伐とした過激さとして噴出するということだ。
それを何でもかんでも肯定するわけにもいかないし、同情できないことも多いのだが、何を言うにしても、せめて一定の理解をしたい・・・言い換えれば、冷笑的な物言いを出来るだけ避けたい。

そのあたりの匙加減も、矢口さんは作中できちんと述べており、同情的であることと非の在り処は異にしている。
要するに言いたいことは、キレる人を一方的に悪者にするような態度は感心しないということだ。
そうした“理解と対話”の感覚を、やはりここでも、どちらかというと右派である矢口さんが備えている事実。



何に対して希望を持てばいいのだろうか?

声を発する者と、バッシングする者が、明確に分かれているなら話は単純なのだが、声を発する者同士が争うし、その争いが激烈だ。

発した声を尊重するべきだと考えると同時に、私を苦しめてきた連中が、「声を発する者」として尊重されるのは我慢ならない。ここでも両方が不正解だ。

私自身がどちらかを選択するわけではないので、クイズではないのだが、後者の流れにも賛同できない。
共産主義革命に、希望など持てない。

おそらく私は、いずれ雨宮さんとも敵対してしまうのだろう。
あるいは、もう敵対してしまっているのかもしれない。

「希望は戦争だ」という言葉に対して当時、私が出した結論は「希望は革命だ」であるが、そう言った私自身が革命に希望を持てなくなってきている。
「革命なんて、どっかの誰かが勝手にやってろ」と投げやりな気分になることが多い。

戦後70年も経とうというのに、色々やった末に辿り着いたのが、東堂太郎のような虚無的ないしは刹那的な結論だというのは、それこそ虚しいものであるが・・・思えば球磨川禊も同じような思想だなぁ。
彼いわくシュールギャグである「めだかボックス」こそ、「神聖喜劇」の後継作なのかもしれない。

さしあたって、チェックしているマンガや小説の発売を楽しみにして刹那的に生きる私・・・。
私の希望は、好きな作品を最後まで読むことだ。
この言葉の持つ重さは、私自身にも計り知れないものがある。

最後まで読みたいということは、最後まで書きたいということでもあり、やはり最終的には作家としての本領に帰結するのが、私の単純さなのだろう。
とはいえ、たまには自分の本領を確認しておかないと、あっちこっち軸がブレるし、折に触れて本領そのものをバージョンアップしなければならないので、“論じる”ことは無駄にはならないのだ。




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内 容 ニックネーム/日時
希望は約束されている
しかし、見えない
見えないが、約束されている

希望は見つけられる
しかし、手に入らない
手に入らないが、見つけられる

希望は誰かが与えてくれる
しかし、自分からは誰かに寄り添えない
寄り添えないが、与えてくれる

人間に出来ること
人間を助けること
人間を愛すること
人間と希望を見ること
グリムリトルブラザー
2014/11/28 00:52
日本の記者がブラジルの少年に「ブラジルも戦争はありませんね?」と好意的な意味で言ったら、少年は顔を曇らせて「でも暴力があるから」と呟いた。
日本も戦争は70年やっていないが、お世辞にも平和な国とは言えない。もちろんテロリストが虐殺をほしいままにしている国も今現在存在しているから、そこに比べたらと言う人はいるかもしれないが、比べる必要もないと思う。
自殺、餓死、虐待、DV、暴力、犯罪、殺人、詐欺、悪徳商法、貧困、貧富の差。それに自然災害やあらゆる苦悩も加えると、とても平和で安全な国とは言えない。
愚鈍な温厚さという言葉があったが、よく「本当に悪い人っていないのよね」と言う人がいる。幸せだと思う。そういう人を無理に激流に巻き込む気はないが、悪魔なんかその辺を普通に歩いている。
声をあげるには勇気がいる。戦時中に戦争反対を叫んでいた人には敵わないが、ネットの進化により、今まで一部の専門家しか自己主張できなかった時代を経験している者の一人として、今、一般ピーポーが編集部カットなしで自己主張できるのだから、この言論の自由を大切にしたい。
あとは表現力の戦いだと思い、技を磨く日々である。一人の心をつかむ言論戦。一人の心をつかむ言論は万人の心をつかむかもしれない。
皆、対話を知らない。政治家がお手本を見せられないから対話ベタな有名人も多い。対話は喧嘩ではなく、共通項を必死に見いだそうと努力するもの。実際、対話ほど難しいものはない。小人数での座談の名人。1対1の対話の達人を目指したい。
「高齢者はお金持ち」という言葉が、どれほど貧しい高齢者を傷つけているか。想像力を失いたくない。全世代大事に決まっている。子どもや青年は未来の宝だが、40代、50代も四季なら真夏。人生の半ばなのに希望を抱けない社会では仕方ない。

ブラックホーク
2014/11/28 20:50
>グリムリトルブラザーさん
最近どこかで目にした言葉で、「我々が知るべきことは多いけれど、まずは愛を知ろう」というものがありました。
思えば長らく、愛や希望という言葉を、斜めに見すぎていたように思います。
傷つきすぎて、全身が膿だらけになって、寄り添うことも出来ずに放浪し、いつしか初心を忘れてしまう。
刺々しい現実が世に溢れる中、たまには優しい言葉に触れないといけないですね。
アッキー
2014/11/28 22:09
>ブラックホークさん
暴力に晒されてきた人にとっては、戦争が無ければ万事良しとはならないですね。様々な権利を奪われている人からしたら、「憲法9条を守れ」というスローガンもピンと来ない。私も、いじめという暴力を受けてきただけに、平和なき反戦運動には失望してきたクチです。
最悪と比較して現状を肯定するなら、戦争だって人類滅亡よりマシということになってしまいますね。この手の比較は、自分の心の緊急避難として使うべきであって、他者に酷い現状を強いる為に使ってはならないと思います。
列記された事柄を、知識として得ている人でも、「なんだかんだで概ね平和だ」と感じていたりする。「難しいけど人は分かり合える」とも。そういう人を責めようとは思わないのですが、やはり聞いていて息苦しくなります。
本来そうした息苦しさを、発言力のある人が代弁しなければならなかったはず。インターネットが無ければ、私は今頃生きていなかったでしょう。ネットに命を救われた人は多いと思います。まさしく言論のセーフティネットでもありますね。口下手でも、ゆっくりと考えて文章が書ける。ネットを知らなかった頃より、随分と表現力も進化したように感じています。
なまじ対面の会話よりも、インターネットの方が対話を学べる場所だと、最近は考えています。文章は文字だけだから、面と向かってなら伝わることでも伝わらない。だから注意を払い、それが表現を磨くことに繋がる。
話の上手な人は、やはり尊敬しますね。フィデル・カストロの最も凄いと思うところは、派手な冒険譚ではなく、親しみ深い対話力です。
キューバを見ていると、そもそも高齢化社会なんて「由々しき問題」ではないと感じます。由々しき問題だと論じることは、高齢者を厄介者扱いしているのと同じなんですね。高齢者が元気に過ごせる社会こそ、成熟した社会であるはずです。
アッキー
2014/11/28 22:44

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