佐久間闇子と奇妙な世界

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zoom RSS 四角形と五角形の間

<<   作成日時 : 2015/09/30 00:10   >>

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何と奇妙な図形だろうか。
三角形の次は四角形。四角形の次は五角形。二角形は潰れてしまって、存在しない。平面図形の常識だ。
しかし曲面には二角形も一角形も描くことが出来る。
では、4.5角形とは?

「何を馬鹿な」「小説家のハッタリだ」「文章上のレトリックでしかない」と、思う人もいるだろう。

私も半分は、そう思う。
ただし半分までだ。

ルービックキューブが望ましいが、サイコロでも、何なら球以外の立体なら何でもいいので、用意してほしい。
とりあえず立方体が説明しやすいのだが、ある頂点から最も遠い頂点に向かった直線と、垂直な平面に、立方体を投影すれば、どうなるか。

別に謎かけでも何でもなく、六角形である。
3次元の物体を2次元に投影した場合、それを我々は計算で形状を求めることが出来る。

では、ここで発想を逆転させよう。

“平面に投影された六角形を見て、元の立方体を思い浮かべることが出来るか?”

正多角形で考えると理解しやすいが、次元数を変えると正多角形(正多面体)は変化するが、頂点・辺・面の数は、次元数を式に含む文字式で表示することが可能である。
正四面体と正六面体の間に、正五面体は“3次元空間では”存在しないが、次元数を変えることで“正五”は出現する。平面では正五角形が存在する。

では、“正四”と“正五”の間は?
直感的には、整数次元においては存在しえないだろう。四と五の間というのが、既に整数でないからだ。
しかし小数次元においては?
それを投影した図形を見て、元の「四と五の間の図形」を表現する場合、平面に描かれているのだから、「四角形と五角形の間」と表現することは間違っていない。

イデア論とも通じるのだが、影を見て実体を把握できるかどうか。イデア・・・。
別に観念論的な話ではなく、人類はスペクトルという“影”を使って、宇宙の果てという“実体”まで観測できる。

もっと噛み砕いて言えば、「ガラスの仮面」の、ライターの話を思い浮かべてくれればいい。ガラスの仮面・・・。

フラクタルの話をしよう。フラクタル・・・。
ぞれぞれの次元においてN分の1ずつ縮めたとき、同じ構造が出現する図形である。
わかりやすく言えば、循環小数のようなものだ。
7分の1は、小数で、0.142857・・・であり、6桁ずらすと同じパターンが出現する。
数学的フラクタルは無限構造なので、N分の1ずつ縮めた場合、完全に元の図形と相似な図形が出現する。

フラクタルの“不気味さ”は、メンガーのスポンジがわかりやすい。
簡潔に言えば「体積0の立体」だ。
ルービックキューブの回転軸を消すと、20個の立方体の集合となる。それぞれを再びルービックキューブと見立てて、同じ作業を無限に繰り返す・・・と、どうなるか。
体積は1回の作業で、27分の20になる。これは無限に繰り返せば0になる。
物理学では、空間に最小単位が存在するので無限は無理だが、数学なら出来る。
確かに“立体”であるのに、体積は“0”という、不気味なものが出来る。
その次元は、2と3の間にある。(約2.7次元。eではないが無理数)

この不気味さに対して、「受け付けない」「理解不能」となるか、「恐いけど面白い」となるかで、おそらく人間は、2種類に分かれてしまう。

私は後者に属する。
メンガーのスポンジに図形を描いて、二次元に投影するとか、考えただけで飯が美味い!

“あっち側”と、“こっち側”があるのなら、私がいる側は少ない。
少ないけれど、いる。

・・・などと、はがない風にイイハナシっぽく締めようとしていますが、ここまで前置きです。
投影された影を見て、元の図形を感じられるのは、同じ側にいる人だと思う次第です。



邪悪とは、無垢なる優しさを言い換えた言葉である。

「[映]アムリタ」
「舞面真面とお面の女」
「小説家の作り方」
「死なない生徒殺人事件」
「パーフェクトフレンド」
「2」

これら一連の、覗き窓・・・もとい野崎まど作品を読んで、その言葉を久々に思い出しました。
小林泰三「人獣細工」の解説で、朝松さんが書いていることですが、喩えるならば、そういうこと。
狂気と幻想の交錯する、“邪悪”なシリーズ。真理と心理の覗き窓。

独創短編シリーズを読んだとき、おかしな探偵たちの出てくるコミカルな方面で小林泰三を思い出しましたが、これらのシリーズで“SFホラー”の方面を深く思い返しました。

SFホラーという呼称が適切かどうかはともかく、この“不気味さ”を最初に味わったのは、実は小説ではなかったりします。
「進化しすぎた脳」や「脳の中の水分子」などの、脳科学の方面。
アリロボットの話はNHK「生命」で知っていたのですが、それを突き詰めた専門知識を学び、単純な機能の集合で複雑な動きが形成されていることを知りました。

意識とは何なのか。
自由とは何なのか。
自由意志はあるのか。

アナログは究極に進化したデジタルであることを、脳科学は証明してしまった。
しかし私は、「人間の感情は電気信号のやり取りに過ぎない」という、この“過ぎない”という表現が、いつも気に食わない。それは何か、貶める感じがして、違うだろうと言いたい。

自分の意識や、意思というものが、デジタルの集合だとしても、だからこそ、である。
だからこそ素晴らしいのだと。
単純なものを集めていくと、量的変化が質的変化をもたらし、素晴らしいものが出来る。
素晴らしいと思うこと自体が、素晴らしいことだ。

オカルト的なものも、ただ否定して「そんなものは無い」「嘘や見間違い」と、首を振る時代は、終わった。
現代科学は、オカルト的なものを、より正しく肯定できるところまで進んだ。
例えば、“幽体離脱”という現象も、人工的に再現が可能だ。再現が可能なら、それはもう科学の領分だ。
科学的に言えば、究極に進んだ客観視を“幽体離脱”と呼ぶのであるが、機会があれば経験してみたい。


話が逸れたが、このジャンルにおいて、野崎まどは小林泰三よりも更に、私と趣向が合うかもしれない。
どういうことか上手く説明しにくいのだが、このジャンルにおいて私の倍以上の見識がある人は、言わずともわかってくれるはず。丸投げである。最低だ。
でもこれはエッセイであって学術論文じゃないし〜?(最低

また、萌えの方向性も、だいぶ近い気がする。
独創短編シリーズを読んだときから薄々そんな気がしていたが、このシリーズで確信。
異能バトルや世界ゲームが、“燃え”の方向性で合致するとしたら、小林泰三と野崎まどは、“萌え”の方向性で合致するという・・・まあ、これも説明が難しいんだけど。
いや、説明しろと言われればするけど、説明しなくても、わかる人はわかるし、説明しても、わからない人はわからない。そういう類のことである。

アムリタを読んで、「本」と「酔歩する男」を思い浮かべる。
お面の女を読んで、「アリス殺し」を思い浮かべる。
作り方を読んで、「C市」を・・・これはビームサーベルのときも思い出したけれど、「C市」よりも好みだった。
本筋とは特に関係ないが、アンサーアンサーはまだしもビーバーイーターで吹かされたwwwくそwww

死なない生徒から、のめり込み度が増した。
めだ箱も思い浮かべたが、またしても「本」が・・・本、が・・・。
そして記事タイトルに挙げている通り、ここから本領だと思った。
“数学ホラー”とでも言えばいいのだろうか。
どうにかして四角形と五角形の間の図形を描けないかと考えて、フラクタルに至り、後で彼がフラクタルの話に触れていたときには、「やはり知っていたか」と思ったものだ。だから、その図形が何であるか理解できたのだ。
おそらく脚本を読めば、寝食を忘れて没頭してしまうタイプだろう。

パーフェクトフレンドで、もはや確信した。するしかなかった。
数学ホラー。

“未知の道”に、言い知れぬ気持ち悪さを感じるのか。
それとも、喩えようもない爽快感を覚えるのか。
人間は、それで2種類に分かれてしまう。

“みんな仲良く”という命題を、とても素晴らしいことだと思えるのか。
わけのわからない無理難題だとしか捉えられないのか。
それで、2種類に分かれてしまう。

私は“友人方程式”を作りたかったのだ。
いや、もっと前の段階だ。
学校に行かずに、ずっと知識の海を泳いでいたかった。陸を歩くのは痛かった。痛いだけで得るものは無い。
そのことを私は知っていたのだ。
だから学校には行きたくなかった。
しかし親は、私を学校に行かせた。
どれほど優秀でも、凡人は天才を理解できない。
そして私は学校で、心のゴミ箱として磨り減らされ、天才は凡人になった。

私は天才が何であるかを知っている。
だから今の自分が天才でないことも理解してしまっている。残骸だ。塵芥だ。
天才の残骸は、能力で凡人に劣り、肥大した自意識が更に足を引っ張る。
誰かの為に死にたくない。愛しいのは自分だけ。
私は「小説を書くことが出来る」のではない。「小説を書くことしか出来ない」のだ。
およそ人間が出来ることが出来ない。
パソコンの周辺機器になりたい。私は櫃内様刻に半分だけ共感します。

順番通りに読まなければ後悔する、と言われたときに、ある期待があった。何しろ私の得意分野でもあるのだし。
その期待は、パーフェクトフレンドで少しだけ叶えられた。
どうして「本」だけでなく「酔歩する男」を思い出したのか、その意味がわかった。

そしてその期待は、最後の「2」で、全て叶えられた。「おおおっ! 来たー!」の連続だ。
期待通りで、想像以上だった。

再び「本」に戻る。
最も邪悪で、幻想的な怪奇に回帰する。
あ・・・ありのまま起こったことを話すぜ・・・“「鈴木先生」を読んでいたと思ったら「THE STAR」になっていた”
何を言ってるのかわからねえと思うが(中略)長瀬が神になろうとしている・・・。神・・・。

いや、回りくどい言い方はよそう。
「2」というタイトルを見た時点で、直感的に「本」と本質を共にすると、私は直感していた。

どちらのタイトルも“無限”の概念を含んでいる。
ビルリッチではないが、「初めて“無限”というものを考えたときの恐怖」を思い出させてくれる。
それは素晴らしいことなのだ。
噛み砕いて言うと、綾辻行人「特別料理」だ。まさに噛み砕くのだ。

本来とても食べられないものを食べたとき、感動することが出来るか、出来ないか。
そこで人間は2つに分類される。
以前に村瀬さんに、「本来快感を得てはならないものから無尽蔵に快感を得る、深刻で貪欲なマゾ」と評されたことがあったが、それのプラス側面だけで生きていければ幸せだと、しみじみ傷を舐めあったものだ。ぺろぺろ。

永遠の命が欲しい。
永遠に創作を続けたい。
無限の猿の定理は、素晴らしいのだ。それを読む者がいれば。

世界に存在する文字と、考えうる文字を、合わせて1兆と見積もろう。
世界には文字の無い言語もあるので、それら全てに、文字を与えた場合、ざっと100万言語×10万字で千億。
その10倍もあれば、きっと大丈夫だ。
そこには空白や括弧、句読点や改行など、様々な記号も含まれている。
仮に1億字の小説を書くとして、空白を入れれば1億字未満の小説も含まれる。
順番に文字を当てはめていき、1兆の1億乗、すなわち10の12億乗種類の文字列を書けば、そこには過去・現在・未来において、人類が考えうる全ての小説を網羅している。

バベルの図書館を現代風に言えば、こういうことだ。
断片的な話だが、「創作を終わらせる」というのは、“命が有限である以上”は、“可能である”。

もちろん限定的な話でしかなく、10の12億乗というのも、地球に限った矮小な数でしかない。
マルチユニバース論と“永遠の存在”を考えた場合、やはり創作は無限としか言いようがない。

そうした抽象的な話でなくても、私は実際に経験として知っている。
「これまでの◎◎は全て過去のものになる」というのは、蓋を開けてみれば大概ハッタリだ。
頷けても驚かない、「確かにそうだよね」と思えても、「限定的な話でしかないな」と思う。

しかしそれは、逆に言えば、限定的な話でいいなら、ありえるし、実際あった。
決闘学園シリーズを読んだとき、ある種の危機感を私は覚えた。
その危機感は当たっていて、「ああ、デュエル小説は、決学より前と後に分けられたな」と、思ったのだ。
あくまで私の感覚であり、コメディや心理方面は別なのだが、いわゆる“少年マンガ的エンタメ”(もっと適切な表現があるかもしれないが)において、デュエル小説は、“進化してしまった”。もう戻れないのだ(ビクンビクン

私もデュエル作家の例に漏れず、原作のアフターストーリーなんかを考えていたわけですよ。
第一部は、闇デュエリストの、アイリス、ベスター、クロードが、【ダークロードA】、【ダークロードB】、【ダークロードC】というデッキを使って、主人公たちと戦い、ついに“累積魔獄”ゾーク・パイシルスを復活させる。
第二部は、それぞれの数年後で、獏良天音の前世アマネが、“逆錐虚無”ゾーク・イスカロフとして。
第三部は、原作メンバーの子供世代。第四部は超未来で、ややBLチック・・・からの世界ループ。
GX放映前、そんなことを考えながら、しかし書くことはないだろうと思っていました。
実際には、その名残や設定が、そこらかしこに散りばめられていますが・・・。

しかし、そのストーリー自体を書くことは、もう無いと思います。
書けば面白いと思うのですが、出来たとしても、「決闘学園より“以前”のデュエル小説」でしかない。
そのことを理解してしまった。だから脳内だけで楽しむ。

まあアレですよ、創作にまつわる悲しい話なんて幾らでもあるわけで。
自分と近いものに触れたとき、孤独感が癒されると同時に、自分の存在意義が疑問になるジレンマとか。
オンリーワンでなければナンバーワンでないと、足元に注意ダバダバダバ♪

創る側と受け取る側の関係についても、嫌というほど知ってるというか、理解してもいるし、経験してもいる。
それこそタイトルから語ってるのだけれども、世の中「わかる人」と「わからない人」に分かれるという。
ある事柄を、説明されて理解できる人と、出来ない人に分かれる。

例えば私は、「給食の素晴らしさ」が全くわからない。
その歴史的経緯、貧しい人にとって役に立ったことは知っている。
だが、私の触った食器は汚いとばかりに配膳を断られ続けた記憶や、1人で食べたいのに気の合わない生徒と無理やり同席させられて死にたくなった記憶を、どうしても思い出すので、“家畜の餌”としか感じない。
素晴らしさが、わからない。素晴らしいと思う人の気持ちが、わからない。
この場合、“わからない”と“わかりたくない”は、同じことかもしれないが。

その逆に、私が書いてきたようなことを、わからない人もいる。大勢いる。嫌になる。
わからないということをわからない人もいる。

作者が読者を選び、読者が作者を選ぶ。
それは私が思い描く理想だ。

噛み砕いて言うと、「わかってくれる人に読んでもらいたい」し、「言いたいことを言ってくれる本を読みたい」。

後者に関しては、再構築という側面もあるのだろう。
私というキャラクターは、大量の本で作られている。
キャラ構築は可能だ。作品が人間を変質させるのは、ありふれた現象だ・・・少なくとも、私はそう思う。
量的変化の差異を、質的変化と感じる人が多いだけで、何も特異なことはない。何も得意なことはない。

多くの本を繰り返し読み込むことで、キャラクターが出来た。
幼い私は、自分で自分のキャラクターを創ったのだ。

Q:人格は創作可能か?
A:YES

Q:天才は作れるか?
A:YES

ならば、精神病という不幸によって崩壊した人格も、再びインストールし続けることによって、元の能力に近いものが出来るのではないだろうか?

事実、そうやって作られたのが、現在の私である。
もっとも、思考パターンを3つに分割するという、けったいな労力を払って、ようやく人並みというところだが。
また仕事で上司に叱られたぉ・・・。鬱だ・・・。創作以外の才能は無いぉ。

気を取り直してインストールだ。
そう、「本」である。親方様である。
わかる人だけがインストールできる、親方様。
私は幸いにして、わかっている。到達してないだけで(日暮れて道遠しレベル)。・・・泣けてくるぜえ。

それにしても、何の因果だろう。
「2」を読む直前に、小林泰三「本」を紹介してくれた、とちの木さんと再会した。
もちろん偶然なのだが、しかし偶然の積み重なりで貴重な今があると思うと、もはや運命と言える。
運命とは、あるか無いかではなく、自由や幸福と同じで、感じるものなのだ。

貴重な今。
小林泰三作品を読み込んだことで、“下地”が出来ていた。その更なる“下地の下地”は脳科学で培った。
そうした下地の積み重ねによって、このシリーズを「わかる側」に立っている、今がある。

間違いなく、このシリーズは名作である。
それを「わかる側」であることは、死ぬなら今かもしれないと思えるほどだ。
また鬱になる前に、死んだ方がいいんじゃないかな。(←さっきと言ってることが矛盾してる)
でもまあ、まだ先が楽しみなシリーズたくさんあるし、まだまだ死ねない。

創作は苦しいけれど、その苦痛を味わっている間は、精神病の症状から開放される。
しんどくても、つらくても、精神病の発作よりマシだ。病気のまま社会生活を送る苦痛より快適だ。
何故しんどいのに◎◎を続けるかって、私たちにとっては“ただ生きる”ことの方が、もっとつらいからだ。

四角形にはわからない。
五角形にもわからない。

四角形と五角形の間にしか、わからない。


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