佐久間闇子と奇妙な世界

アクセスカウンタ

zoom RSS 「サトリン」 第十五話 約束のクリスマス (茶倉)

<<   作成日時 : 2016/10/01 00:32   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

■■■■■



咲村志織(さきむら・しおり)が生まれたのは、1953年の3月9日。
年度としては1952年度の生まれになる彼女が、高校に入学したのは1968年のことだった。
ニュースでは、デモ隊が警官隊と衝突して重傷者が出たとか、青年実業家が殺されたとか、キナ臭い話も流れていたが、そんなものは自分と無縁だと思っていた。
思っていた、といっても考えていたわけではなく、よくある程度のことだと感じて流していた。日頃から強く意識するようなことはなく、平凡で平穏な人生を楽しんでいた。
卒業後は服飾関係の会社に入り、簿記の資格を活かして会計を担当することになる。
それから5年あまりが過ぎた1976年の夏に、彼女の人生は一変してしまう。高校時代の同級生と面会したとき、最初に覚えた違和感は小さなものだった。
「ちえーっ、私、クラスの中では結構目立ってたと思うけどなー。」
5年も経てば、クラスメートの顔や名前など覚えてなくても不思議ではないが、こちらがしっかり記憶していることを忘れられているのは、何とも寂しいものがあった。
違和感が膨れあがったのは、彼の父親と会ったとき。
彼女は既に、日常から外れた、暗く深い沼へと足を踏み入れていたのだ。
同級生の名は鏑木優紀(かぶらぎ・ゆうき)。
志織には思いもよらなかったことだが、そのときの彼には“悪霊”が憑いていた。

“悪霊”。

そうとしか表現できない、あるいは善悪で捉えることすら出来ない、“幽霊”。
己の肉体を持たない、憑依霊の如き者。エスパーと呼ぶにも、あまりに異質な存在。
「ユウキとかいう男には気の毒だがな・・」
悪霊が存在するならば、それを退治する者も存在する。
少女は、ミルと名乗った。
ミル・ネヴィー。史上十二番目の、神化系能力者。特異性においては“幽霊”に匹敵しかねないエスパー。
彼女に食ってかかった志織は、見えない力で両の腕を、へし折られたのだった。
「きゃああっ?!」


- - - - - -


気が付いたときには、どこかに寝かされていて、両腕に違和感があった。
痛みと混乱で意識を失っていたらしい。どうやら病院にいるようで、折られた両腕はギプスで固定されていた。
「起きたかい。」
ナイフでリンゴの皮を剥いていたのは、40歳ほどの男性だった。白衣を着ているからには医者だろう。
「説明、説明、説明だ、説明。」
雨水一二(うすい・いちじ)と名乗った医師は、志織が老人の通報で運ばれてきたことを手短に告げると、小さく嘆息した。
「あの。」
志織は混乱したまま言った。
「エスパーって信じますか?」


- - - - - -


それから2年あまりが経過する。
この間に志織が、どのような人生を歩んできたかは詳細を割愛するが、このときの彼女の姿を見れば、おおよそ見当がつくかもしれない。
1978年の12月。膨らんだ腹を抱えて、志織は薄暗い産院にいた。
隣に父親はいない。父親が誰なのかはわかっているが、いてほしいときに隣にいない。
(いつから・・・こんなに・・・なっちゃったかな・・・)
何も好きで落ちぶれたわけじゃない。なのに今では、3年前が遠い。記憶が霞んでいる。
妊娠を知ったときは、ひたすら恐ろしかった。
堕胎するのも恐ろしかった。
子供を産むのも恐ろしかった。
(エスパーなんかを・・・追及しようって思ったのが・・・間違いだったのかな・・・)
あれから超能力について調べる中で、宮白希揃(みやしろ・きせん)という青年に出会った。同じ頃に、後に音楽家として名を馳せる十島育生とも会うことになった。
そして今、隣にいるのは、かつて彼らと浅からぬ仲だったという女性。
黒月真由良(くろつき・まゆら)。
彼女のおかげで志織は自殺せずに済んでいるようなものだ。
流れるのも、流されるのも、結局は同じことなのかもしれない。志織が真由良に救われているのと同時に、真由良が志織に救われているように。
腹に宿った子供は流れることなく、大晦日も近い頃に産声をあげた。
その同じ日に真由良も、早産だったが女子を出産した。
志織の産んだ子供は茶倉と名付けられ、真由良の産んだ子供は真弓と名付けられた。
2人のうち一方は、平穏な少女時代を歩み続け、もう一方は数奇な少女時代を送ることになる。
これから追っていくのは、後者の人生だ。


- - - - - -


咲村茶倉が生まれたのは、1978年の12月28日。
2歳の頃には物心ついていた茶倉は、きりっとした冬の景色を大人になってからも覚えている。
その年の春の、父親と母親の会話も、映像だけは覚えている。
「・・・・・・。」
あのとき自分は、どんな目をしていただろうか。
あのときから自分は、今のような人間になっていったのではないか。
(ああ)(子供を作ることは)(無駄なことで)(家庭を持つことは)(なんて無駄なんだろう)(無駄)(無駄)
それっきり姿を見せなくなった父親の無責任さと、それから身も心も磨り減っていく母親の姿は、幼い茶倉をニヒリストにするには十分だった。
「・・・・・・。」
効率よく生きていかねばならないと思った。
出来るだけ無駄を省いて生きていかなければならないと、恐怖と共に思った。
外で遊んだりするのは無駄。
仲の良い友達を作るのは無駄。
おしゃれやファッションなど無駄。
そんなものは生活の助けになどならない。
遊んでる暇があれば、母の手伝いをする。
子供の友情は生活費の足しにはならない。
着飾ることは家計を圧迫するだけの浪費でしかない。
ケチ臭いとか、可哀想だとか、言われたくない。どうしてそんな侮蔑を受けなければならないのだろう?
同情するよりカネを出せ。
無駄だ、本当に無駄だ。一文の得にもならないような、同情とか、思いやりとか、おたたかさとか、涙とか、猫なで声とか、応援だの励ましだの、笑顔にスピーチ、そんなものは無駄で無駄で仕方ない。
そんなことを普通に考えていた。
うらぶれて、やさぐれていた。
母親の重労働や、受けている性的な嘲りの数々を、世に訴えてやろうと思ったが、無駄なのでやめた。
そんなことよりも、早く自分が立派な人間になって、母親を助けようと思っていた。
茶倉はニヒリストであっても無責任ではない。自堕落に生きるくらいなら死を選ぶ。死んだように生きるのは無駄だ。
そうした苛烈とも言えるほどの精神で、何年も過ごしてきた。
小学校へは通っていなかったが、自分なりに学問を志し、わからないからといって投げ出さなかった。食らいついた。
幸いというべきか、心だけでなく体の方も発育が早く、年齢を偽って8歳のときに中学生になった。
第二次性徴が早かったとはいえ、流石に中学生の中では身体的に劣位だったのは否めない。学力も中程度より下だった。
とはいえ、戸籍を改竄したことに後悔も罪悪感も無かった。そんな感情は無駄だからだ。
堅く秘密を守ったのも、恥ずかしいからではなく、あれこれ言われるのが煩わしいからだった。たとえ善意でも。

中学校で数ヶ月を過ごすうちに、茶倉は人間嫌いを加速させていった。
何て幼稚で下卑た奴らだろうか。中学生にもなって、そのへんの犬猫と同じか。
ちょっかいや、からかい、陰口に、奇声、騒音。
愚にもつかない連中の群れ。
生きているのが無駄な奴ら。
そんな連中がクラスで幅を利かせていて、真面目に勉強を頑張っている生徒は、つらそうだった。
少なくとも、茶倉は、つらかった。つらいと思うことも無駄だと、自分の気持ちを抑圧して、耐え抜いた。
いじめも何度か経験した。ある教師は「見てるだけも加害者だ」とか「やめてと言うのが有効」だとか、ズレまくった妄言を吐いていた。
(死ね)(ゴミ教師)
やめてと言ったところで無駄だし、その主張をゴミ教師に向かって述べるのも無駄。望む効果など無い。
学校生活そのものが無駄。
ああ、子供時代とは何て無駄なんだろう。早く大人になりたい。
というか、早く大人になれよ、そこで騒いでいるクソガキども。
ごちゃごちゃと。
うるさい。
(ああ)(無駄だ)(無駄な感情)(無駄)
茶倉にとって、ニヒリズムは自分の心を正常に保つ為のライフラインだった。
こんなことは無駄だと思わなければ、怒りで発狂してしまいそうだった。
ゆえに筆者も、彼女の中学時代を逐一ほじくり返そうなどとは思わない。読者諸氏を不快で退屈な気分にさせてしまう以上の何かは無いし、彼女の人格を荒廃させた3年間だったということ以外を語るのは、それこそ無駄というものだろう。
「・・・・・・。」
何も考えてないのに、何かを思っていることが増えた。
「・・・・・・。」
母が捻出した費用で格安の塾に通い、高校へ入学したのは11歳の春。1990年の4月だった。


高校の勉強は、何て難しいのだろう。
難しいというよりは、やることが多いと言うべきか。どれもこれも中途半端にしか出来ない。
茶倉の成績は、一学期の中間は平均点そこそこだったが、期末テストでボロボロになった。
高校受験のとき世話になった塾に、再び通うことになった。格安の値段で上質な授業。ありがたい。
このとき既に九古鈍郎とは出会っているのだが、双方ともに“出会った”という意識は無い。すれ違うだけの間柄に、他人として以上の感情は芽生えない。
この塾が、いわゆる左派の人々が運営しているのだと知るのは、もう少し先のことだが、それゆえに茶倉にとっては良い塾だった。丁寧な指導に加えて、受講料が安価で、払い遅れの相談にも乗ってくれる。貧窮した生活においては、そうした融通が死活問題に直結していた。ゆえに、ありがたい。
そのまま順直に行けば、茶倉は左翼活動家になっていたのかもしれない。そうなる素質は十分あった。
戦争は資源の無駄遣いで、貧困は心を蝕む害悪だ。
いつの頃からか、心臓から腹の辺りへかけて、熱く濁った重苦しい塊が座していた。ちょっとした他人の発言に対して、その塊がゴソリと動くとき、はらわたが煮えくり返るほどの熱が湧いてくる。
あ、あ、まっ、たく。
“他人”というものは、いつもいつも無駄なエネルギーを使わせてくる。近しい人達だけで、内輪で過ごせれば、どんなにいいことだろう。だが、社会の中で暮らしている以上は、そして自分が貧乏であるなら猶更、そんな夢物語に浸ってるわけにもいかない。
浸っていたいが。
死ぬまで浸っていたいのは本音だが。
そうでないならば、社会を変えるしかない。貧困という害悪を叩き潰し、粉々にし、ゴミ箱へ放り込んで、火をかけて、燃え尽きた灰に唾でも吐きかけてやりたい。
左派というより、左翼というより、一歩進んで革命家。
そんな道もあったのだろう。


「きゃっははァ〜い♪ はっじめましてェ茶倉さん? こんばんは、わんばんこ、お呼びでないのにコンニチハっす! 次のエリアに御案内☆電子の海からやってきた〜♪ お尻の小さな女の子〜♪」
「・・・・・・え?」
高校三年生の夏休み、悪夢は突然訪れた。
「あっ♪んっ♪んあっん〜♪ この体じゃスリムでキュートと言えないか? こ〜んな、くったびれた中年女じゃ? ブベッ」
血を吐きながら笑っていたのは、自分の母親。
いや―――
「私は“イヴィル”。」
―――決して母親ではない“何か”。
それは楽しそうなステップを踏んで、血を吐き続けた。
「コォ♪」
「・・・・・・。」
意味がわからなかった。
「・・・・・・。」
茶倉は薄汚れた通学鞄の重みで手を下げて、そのまま座り込んでしまった。
血を吐き、泡を吹き、涙と鼻水に塗れた笑顔で、母は失神していた。あちこち皮膚が裂けていて、鉄臭い香りと共に、失禁した匂いが漂っていた。
「・・・・・・。」
何かを思っているはずなのに、思考が動かない。目の前の状況を分析する為の機能が、はたらかない。
ニヒリズムの薄皮に守られた心は、次の行動を決めかねていた。
「そうだ・・・救急車・・・呼ばなきゃ・・・」
ふらふらと立ち上がった茶倉は、119番を押した。
それからのことは、よく覚えていない。
気を失っていたのかもしれない。

茶倉の生活は破綻した。
意識の戻らない母親は、泣きもせず、笑いもせず、カネを稼ぐこともない。
貯金など無い。急いで生活を立て直さなければならなかったが、知識が無い。情報が無い。
(福祉の勉強をするんだった。)
とはいえ、母親と役所のやり取りを見ていると、生半可な知識があったところで、かえって嫌な思いをするだけ、無駄だと感じた。
知識は無くとも、何となく雰囲気は読める。
(どん詰まりだ)(くそっ)(終わるのか)
高校を中退して働くという選択肢はある。しかし、それでは今までの積み重ねが無駄になってしまうのではないかと、ひどく恐い気持ちになった。努力してきたからこそ、恐怖に怯える。何だそれ。
(無駄は嫌い)(無駄は嫌いだ)
無駄を省く生き方は、余裕の無い生活から来る必然だった。
その余裕の無さは、茶倉を追い詰めていた。
学校は頼れない。
役所は頼れない。
祖父母は既に死んでいる。
(あれは)(何だったの)(狂って)(キレてしまったのか)
母親の豹変を常識的な思考で捉えれば、そういうことになるだろう。
そのときの茶倉には、想像もつかないことだった。
“イヴィル”という存在を。
まして自分が、生まれたときから数奇な運命を背負っているなどと―――


幼い頃から茶倉は、借金だけは絶対するまいと思っていた。
ひとたび借金をすれば、利子は雪だるま式に膨らんでいく。元金よりも多くのカネを取られるなど、我慢ならない。
その我慢ならないことを実行したときには、自分の中で何か大きなものが崩れていく気持ちだった。
誇りとか、信念とか、思い入れとか・・・そんなものは、カネあってのものだと痛感した。
(早く返さないと)(早く早く)(ああ)(くそ)(いらいらする)
腹の底で重苦しい塊が動いている。
将来に対する不安。
いわゆる“いい高校”とか“いい大学”を出て、出たとして、どうなるのだろう。
ふと思ったのだ。それで将来は約束されているのかと。
愚にもつかない高学歴批判などに賛同する気は無いが、エリート幻想に酔っていられるほど夢見がちでもない。
“高度経済成長”は終わったのだ。経済の成長は今後も続くのだろうが、一億総中流と言われた時代は終わった。
何が中流?
ヘドが出るわ。
貧しいものが1人でもいるなら三流の国だ。その1人にならない自信があるのか。その1人が、千人、百万人にならない保証はあるのか・・・そうした茶倉の暗い怒りは、遠くない未来に大勢が叫ぶようになる。
遅えよ。
茶倉は思っていた。
20世紀のうちから貧困撲滅を唱えていた人々を尊敬する―――21世紀になってから、周りが、時代が、大勢が危機感を抱いてから、ようやく叫ぶようでは遅いのだ。
その程度で、そんな程度で、21世紀に生きる子供たちを守る?
笑わせんじゃねえ。
20世紀に貴様らは、貧困撲滅を唱える人を笑いものにしていただろうが。
ああ、あ、いらいらする。
頭が割れそうだ。
(ゆがんでいる)
社会という曖昧なものが、世間というあやふやなものが、自分の人生を決定していくのか。
嫌だ。
もう嫌だ。たくさんだ。
(死にたい)
自衛隊に入ろうと思った動機に、そうした後ろ向きの薄暗い感情が大いにあったことは否めない。
もちろんメインは、手っ取り早くカネを稼ぐ為ではあるのだが、戦争でも起こって自分なんか死ねばいいと思っていた。
湾岸戦争のことが、やけに近く感じた。
黒く黒く。
イメージは戦車に大砲。爆撃、轟音、火に煙。
楽しそうだと思うことは、不謹慎だろうか。
もはや通常の倫理観が麻痺するほどに、茶倉は疲れきっていた。
唄が聞こえてきた。

人間、10年以上も生きていれば、いろいろなことを学ぶものだ。
例えば、世の中には不幸な偶然が溢れかえっているとか。
例えば、渡る世間に鬼は無いが、鬼よりも厄介な人間がいるとか。
例えば、きっかけは些細なことであるとか。
公的には17歳、実際には13歳の茶倉は、唄を聞いていた。彼女の人生を左右する決断は、その唄を聞いたことが、きっかけだった。

自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう
自衛隊に入れば この世は天国
男の中の 男はみんな
自衛隊に入って鼻閉じる

皆さん方の中に 自衛隊に入りたい人はいませんか
一旗あげたい人はいませんか
自衛隊じゃ 人材 求めてます

それは自衛隊員の募集だった。
本来は自衛隊を皮肉った反戦歌であるはずの唄が、こうして自衛隊の宣伝に使われていることは、それこそ皮肉なことと言うべきだろうか。
それは自衛隊の広報が、皮肉も理解できない間抜け揃いというよりは、左派・左翼の凋落が深刻であることを示しているのだ。
自衛隊が鼻閉じる(華と散る)ことを誉れだと開き直れば、この唄は皮肉としての効力を失う。自衛隊が「軍隊ではないですよ」「平和の為ですよ」という欺瞞に基づいている限りにおいて、それを皮肉れているのである。
もし、自衛隊の広報が、そうしたことまで考えて、敢えて敵方の唄を取り込んだのだとすれば、間抜けどころか大した返し技だ―――しかし、そんなことは別に、どちらでもいい。茶倉にとっては、どうでもいいことだった。
カネを稼げるなら上々。
華々しく散るなら、それも良し。
どうしたって今よりマシだ。
うざったい軍国主義などに頭を垂れる気は無いが、さりとて実体の見えない反戦平和など唱えるのは下の下。
仮に4番目があるとすれば―――実際それが茶倉の行き着いた道ではあったのだが―――それは今まで無駄だと切り捨ててきた中にあったと言えるかもしれない。
ヤスパースのいうところの、限界状況を突破する手段と同じ。すなわち、他者と交わること。
渡る世間に鬼は無く、鬼より冷たい人だらけだが、それだけでなく、妖怪がいると知った。
世話になっていた塾で、自衛官になる為の試験対策をした講師に出会ったとき、そう思った。
「はじめまして、九古です。」
彼の双眸は、ぽっかりと開いた、底知れない闇のように思えた。
真面目で謙遜ぎみの、優しい雰囲気の裏側に、ひたすら虚無が広がっているようだった。
「はじめまして、咲村茶倉です。」
寒気と安心感を半々くらいで覚えながら、茶倉は自己紹介をした。


九古鈍郎は、良い教師だった。
それはあくまで咲村茶倉にとっては、という意味であるが、一般的にも悪い教師ではないだろう。
わからないことを質問すれば、わかるまで解説してくれた。忘れたことは何度でも、嫌な顔せずに説明してくれた。
他の教師によくあるような、わからない生徒に対する苛立ちや叱責、偉そうな態度などが、彼には皆無だった。
決して教え方が上手とは言えないのだが、しかし下手でもない。むしろ、上手くても偉そうな教師などよりは、精神的に楽だった。
こんな大人もいるものだと思った。
一日、一日、少しずつ。
薄皮を重ねるように信頼を重ねた。
茶倉の人間不信は、あくまで自分の筋に合わないものに対する不信であり、人間そのものに対して絶望しているわけではない。この人ならわかってくれるだろうかという思いが、ぐつぐつと煮えてきていた。
自分の心を晒すというのは、恐いことだ。そこで拒絶や否定を食らったら、深く傷つくことになる。
人間、10年以上も生きれば理解する―――理解されないことを理解する。はっきりと意識できるかどうかは別にしても、心の闇に対する辛辣さは大体わかる。
誰もが同じように苦しんでいるわけじゃない。人の心の闇を知って、嬉しいと思うほどの、大きな闇を持つ者など、そうはいない。
だからこそ茶倉は、言えないでいた。この人こそはと思いつつも、それが幻想でない保証など無い。
保証か。
ははは。
私は臆病だ。
出会った日に感じた“虚無の安心”を、未だに信じきれずにいる。
言うか。
言わないか。
決断までの時間は短い。高校を卒業すれば会えなくなる。
卒業してからも会えますか―――駄目だ、頭のおかしい子だと思われる。
いっそ試験に落ち―――馬鹿か、本末転倒だ。馬鹿か。
ぐつぐつ
ぐつぐつ
煮えた砂糖水。塩水。泥水。
いらいらする。
良くない。
これは良くない。


「父親のいない子供って、どう思いますか?」
あるとき、茶倉は質問した。
質問してから、冷汗が出た。
ふと、何となく、何の覚悟も無く、口にしてしまったのだ。
「あ、ええっ・・・?」
鈍郎は困惑していた。
しかし、困惑しながらも懸命に対応しようとしていた。言葉を選んでいるのが見て取れた。
(良かった。)
何の葛藤も無く「片親でも恥じることはない」とかいう類の綺麗事を言うような人でなくて、良かった。
恥ずかしげもなく「父親がいなくても子供は立派に育つ」などと言うような人でなくて、良かった。
そういう人々は、善良であるかもしれないが、誠実かどうかは疑わしい。少なくとも茶倉は、そう思っていた。
どっしりと構えた余裕ぶった態度よりも、自分の為に懸命になってくれる姿勢に心打たれる。
たとえ口調は重々しくとも、軽々しく人の生き方に口を挟む奴はいる。偉そうな奴らは大体そうだ。
人が人に向き合うということは、生易しいものでは決してない。いつだって不安だし、恐い。
不安も恐怖も感じない人とは、話もしたくない。劣悪な馬鹿は論外だが、偉そうな奴も信頼できない。
茶倉が信頼できるのは、自分と対等な者だけだ。
(対等だろうか)(この人とは)
もちろん、大人と子供だ。総合的な意味では、決して対等ではない。茶倉の言う対等とは、部分的なものだ。
自分の核となる部分で対等であれば、他は対等でなくていい。
(この人こそ)(私の)
ゾクッとした。
今まで生じたことのない感情が湧いてきた。体から、汚れや老廃物がボロボロと落ちていく心地だった。
彼の骨ばった手が綺麗だと思った。
(触れてみたい)
心臓が熱い。
血が巡る。よく巡る。
(落ち着けよ私)
その日は眠れなかった。

茶倉は自分の感情の正体に気付いていなかった。また、その感情が熟しているとも言えなかった。
それは恋や愛というよりは、衝動だった。
衝動に負けるわけにはいかない。自分を律しろ。心を乱さず、目的に向かって進め。
無意識からの呼び声は、茶倉を試験のみに集中させた。
年齢を4つも偽っているとはいえ、そもそも学力の基礎は中学までには完成し得る。90年代より前の中学生は概ねそうであったと言えるし、筆者の体験を鑑みても、それは不可能でもなければ稀有でもない。
1993年、咲村茶倉は、ひとりの兵士となった。
あるいは自衛官と言うべきなのかもしれないが、それもまた、どちらでもいいことだった。
カネを稼げるなら良し。
華と散るなら、それも良し。
軍国主義にも平和主義にも頭を下げるつもりは無い。
しかし春の陽気のせいだろうか、迂闊にも新しい人間関係に胸を躍らせたことは否めなかった。
それは心が死んでないという意味でもあるのだが、油断でもあったのだ。

入ってみないとわからないことはある。
思っていたより普通だと、意外に思ったものだ。良い意味でも、悪い意味でも、そこは“人間”の社会だった。
味わったのは、安堵と失望。当然ながら人間関係では失望の方が多かったのだが、とにかく安定したカネが手に入ることは、大きな喜びだった。
そこらで反戦平和を唱えている連中は、これほどのカネを与えてくれるのか?
やれ搾取だ階級闘争だと叫びながら、実質どれだけのことを出来ているのだ?
貧困に対する危機感が違いすぎる。貧しくても笑って過ごせる奴らとは、この先も相容れることはないだろう。
後に結婚した夫―――左翼の側であるはずの人間が、同じ思いを、より強烈に抱いていると知ったときには、驚いたものだった。
そして1993年当時も、反戦平和を唱えている人々の中にも尊敬すべき人物がいることを知っていたし、自衛隊の中にも同じ考えをもっている人がいた。
数少ない、“良し”の方の人間関係。
その人は広報の二曹(士長より2階級上)で、吉岡といった。
「意外かもしれないけど、自衛隊では珍しくないのよ。」
少数派だけどね、と付け加えた彼女は、精神病院にいる父親の面倒を見る為に、自衛隊に入ったのだという。
その柔らかな容姿と物腰の奥に、多くの苦労を重ねているのだ。
彼女の言うことが自衛隊一般の性質なのか、彼女の周囲の稀有なケースなのかは判断できなかったし、あるいはハッタリかもしれなかったが、それもまた、どうでもよかった。
それよりも、話の通じる相手に巡り会えたことの方が、遥かに重要だ。

茶倉には、嫌いな言説があった。
それは例えば、「未来に生きる子供たちの為に、戦争の無い社会を作ろう」という類のものだ。
反戦とか、平和とか、革命とか、そうした言説の中には・・・子供子供子供、女子供。
(うるさいんだよ)(いい加減にしろ)
筆者も疑問であるのだが、女性と子供の命は、成人男性の命より重いのだろうか?
生物学的に言えば、成人男性の数は少数でいいとの論もあるが、そうした論は“獣の論理”だと茶倉は思う。
(ヒューマニストを名乗るなら、人間の理屈を口にしやがれ!)(ああ)(いらいらする)
また、そうした成人男性蔑視は、女性を“産む機械”と捉え、閉経した女性を役立たず呼ばわりするのと同じだけ、底の浅い生物学もどきであった。
社会的合理性ないしは遺伝子学的多様性を考えたとき、底の浅い自称生物学者は容易く地金を晒す。
(しかし)(しかしなあ)
茶倉が苛立っているのは、そのせいだけではない。
そのような反戦論者の言説に対して、軍国主義的な押し付けがましい物言いをする連中がいる。
例えば「誰がお前らを守ってやってるんだ」「反戦を叫んでいられるのは誰のおかげだと」「現実見ろよ」・・・そうした言説に対して、茶倉は腹を立てていた。独善的な物言いに、心底ヘドが出る。
そうした連中は、反戦平和の多くの言説と同じく、“女子供”という物言いを平気で、普通に使っていた。
(どいつもこいつもヘドが出る!!)
茶倉は二重三重に苛立っていた。会う人間、会う人間、どこまで人を見下しながら生きているのか。
そう感じる自分も、そうやって人を見下して生きているのか。やりきれない。いらいらする。
だからこそ、吉岡二曹との出会いは貴重なものだった。母親と九古鈍郎に続く、3人目。
あるとき彼女に、このことについて話を振ってみた。
「・・・そうね。」
吉岡二曹は軽く言葉を切ってから、言うべきことを考えて目を瞑った。
腕を組むと、彼女の豊かなバストラインが強調される。同性でも、というか同性だからこそ注目してしまう。
「そこは二重三重に話がこんがらがっているのだけど、少なくとも私も、あなたと同じ意見よ。右翼だろうが左翼だろうが何だろうが、くだらない人間が多いし、けれども尊敬すべき人間も中にはいるってね。」
少し話を振っただけなのに、的確な答えが返ってきた。
(そうか)(そういうことだ)
吉岡二曹は話を続けた。
「私たちは職業から、反戦平和を志している人たちとは相容れない敵同士となる。でも、それは決して憎み合うだけの関係じゃないの。真剣に命と向き合っていれば、立場が違っても、敵同士であっても、互いに通じるものがあり、尊敬し合えるわ。」
まったく頷ける意見だった。
そして同時に、なんて柔らかな物言いをするのだと思った。
(私は殺伐としている)
それも良し悪しで、悪いだけではないが、茶倉は吉岡の柔らかさに憧れを感じた。
そして、柔らかいということは、甘さや欺瞞とは違う。
「あなたも私も人殺しよ。」
この言葉が忘れられない。
「言ってる意味、あなたならわかるわよね?」
「はい。」
兵站において、後方支援の重要さは語るまでもない。
しかし、どれだけの兵士が、それを理解しているだろうか? あるいは、どれだけの市民が、それを理解している?
普通科や機甲はまだしも、衛生隊や音楽隊も等しく殺戮の手伝いをしているという認識を、持っている人は少ない。
それは感覚的には仕方ないことかもしれないが、茶倉は我慢ならない。米軍の後方支援だけなら戦争に参加してないという類の言説が、茶倉は死ぬほど嫌いだ。
「軍人として仕事をしているという時点で、等しく人殺しであるという自覚を持つべき。それが命に対して誠実に向き合うことだと思っているわ。」
彼女の言葉が、体を潤すように染み渡る。
言ってる意味がわかるというだけでなく、彼女も自分と同じ、「人と分かり合えない思い」を抱いていたのだということが、伝わってきた。
茶倉が吉岡に出会ったように、吉岡も茶倉に出会ったのだ。
「世の中、いろんな人がいていいし、いろんな人がいるべきなのよ。自分と考え方の違う人や、自分に同調しない人に対して、心無い言葉をぶつけることは、最大限慎むべき。いろんな人がいていいというのは、無制限ではないわ。自分たちに同調する人々だけが現実を見ていると思い込み、他人の思想や主義主張を尊重しない人たちは、さっさと世の中から退場することね。」
吉岡の言うことは苛烈さを増していくが、しかし口調は穏やかで柔らかいままだった。
茶倉の嫌いな連中は、総じて下品だ。ここで言う“下品”とは、チンポとかマンコとかいう言葉を口にするようなものではない。人間の根っこの部分というべきところの、品性や美学におけるものだ。
「疲れた大人は口癖のように、世の中は黒か白かじゃない、と言う。男と女とか、右翼と左翼とか、そうした二元論を見下して、世の中はグレーだと、わかったようなことを言うの。でもね、二元論者とそれ以外に分けることも、やっぱり二元論なのね。」
連中は二元論を否定しながら、どっぷり二元論者。それも、底の浅い方の。
このあたりの話は数学の集合論とも関わってくることであり、数学の得意な茶倉は即座に理解できた。
数字を扱うだけが数学じゃない。その本質は、抽象論理学とでもいうべきものだ。数学が苦手という人の中には、ただ計算が苦手に過ぎない人も少なくない。
計算の束縛から解き放たれた数学は、具体的な現実を考える際に、大きな助けとなってくれるものである。
「二元論は全ての基本になっているわ。善と悪、生と死、物質と観念、上と下、前と後ろ、熱いと寒い・・・。それらをまずは受け入れて、疑問や矛盾を感じるに従って、訂正され、組み合わされ、複雑化していく。そうした二元論の緻密な組み合わせが、豊かな人間性と社会を育んでいくのよ。」
まったくもって同意できた。世の中ここまで自分と同じ考えの、それも自分より深く考えている人がいるのかと、嬉しくて仕方なかった。
吉岡との付き合いは、自衛隊を退職してからも続いた。夫に会わせたとき、「いい男を選んだわね」と言われた。
(ああ)(やっぱり)(この人は味方だ)
それこそ主義主張や立場を超えて、確かな“同類”の絆だった。


さて、ここで話を1996年の2月に移さなければならないだろう。
茶倉が鈍郎と再会した、あの日へ。
「運命としか思えない。」
配属先が沖縄で、そこで鈍郎の姿を見つけたとき、茶倉は思わず呟いた。
3年前の、ドロドロした狂おしい感情が、堰を切って溢れ出した。
彼を忘れていたのではない。彼への思いを心の奥に溜め込んでいたのだ。
恋や愛なのか、欲望や衝動なのか、それらの合わさったものなのか。
わからないが、どうでもいい。
とにかく彼に会いたかった。
恋愛なんて知らない。確信があるだけだ。
「九古さん、お久しぶりです。」
居酒屋から出てきた鈍郎に、うわずった声で茶倉は声をかけた。
本当は出てきた時点で声をかけるつもりだったのだが、緊張のあまり声が出なかった。
彼が建物の中に戻ろうとしたとき、このまま声をかけなかったら二度と会えないかもしれないと、危機感が緊張を振り払った。
「・・・咲村さん?」
呼ばれて、心臓がドクンと鳴った。
顔が熱くなっている。
彼の瞳は3年前と同じく、底知れない深い輝きを放っていた。
その声には安心感があった。
(私は?)
自分の声は心と同じで刺々しく、うらぶれた双眸は濁っているのだろう。
やっぱり自分は人殺しで。
尊敬すべき平和活動家である彼は、この3年で更に深みを増していて。
(私は馬鹿だ。)
自覚を持つなど、基本中の基本。
自覚したところで人殺し。
それでも、自分が人殺しであることを自覚してない人間よりは、上等だと思っていたか?
(何それ。)
恥ずかしかった。
合わせる顔が無かった。
反戦を唱える人々からの攻撃にも鉄面皮だった彼女が、このときばかりは大いに恥じた。
「偶然ですね。」
何か言おうとして、つまらないことを言ってしまう。
もっと気の利いたことが言えないのか。ぐるぐる考えていることは多いくせに、ちっとも言葉になりゃしない。
「仕事中じゃないの?」
言われてギクッとした。
ここにいるのは、実は宿舎を抜け出してきていたのだ。
「3年、になるのかな。」
鈍郎の、かつてを懐かしむような言葉に、茶倉は飛び跳ねて喜んだ。
しかしそれは心の中だけのことで、実際には「はい」と素っ気なく返事しただけだった。
どうして自分は、こういうときに言うべき言葉を口に出来ないのだろう。
緊張のせいだけではない。どれほど緊張しても、頭はクレバーだ。
そうではなく、もっと根本的なところ。幼い頃の自分が、無駄と切り捨ててきたもの。
人付き合い。友達と遊ぶこと。
どうすれば良かったんだ?
「それでは、また。」
いたたまれなくなって、その場を去った。
ああ、まったく。
まったく。
彼に何と思われただろう。
変な女と思われたか。それならマシだ。去り際にニヤけたのを、気持ち悪いと思われなかったか。
考えていくと悪い想像が止まらない。
(ああ)(どうしよう)(どうしよう)(死にたい)(死にたい)(死ねない)(ふざけるな)(なぜ私が死ななくてはならない)(会いたい)(会いたい)(ああそうだ会えばいい)(そうだ)(そうしよう)
独りで考えていると変になりそうだ。
休みの日に、吉岡二曹あらため吉岡一曹と会って、洗いざらいぶちまけた。
「いいじゃない! 応援するわ!」
キラキラと目を輝かせて、吉岡一曹は茶倉の手を取った。
「自衛隊員だって女の子だもの。24時間365日、自衛官でいなくていいわ。お母さんが24時間お母さんでいなくていいように、お父さんが24時間お父さんでいなくていいように。・・・もちろん、いつでも自覚と誇りを忘れないのは立派だけど、それだけじゃあ疲れてしまう。体じゃなく、心がね。」
相手が左翼の活動家であることなどは、問題にもならなかった。
大切な妹分の恋を応援する、ひとりの乙女がそこにいた。

・・・ただし、問題にならないというのは、茶倉と吉岡の間だけの話だった。


- - - - - -


「九古さん、誕生日おめでとうございます。」
準備を整えて、鈍郎のもとを訪れたのは、半年後のことだった。
まさか迷彩服でプロポーズするわけにもいかない。このときの彼女は、清楚な白のワンピースに、吉岡一曹に結ってもらったポニーテールで決めていた。
後から考えると、鈍郎の性格なら迷彩服でプロポーズしても喜んだ気がするが、ワンピースも嫌いじゃないはずだ。
「どうしてここに?」
「あなたと結婚する為に。」
ストレートに告白したら、鈍郎は真顔で固まった。
しまった、またやってしまったか。色々と考えてきたセリフがあったのに、反射的に答えたことで頭から吹っ飛んだ。
ふとんが吹っ飛んだ。
ギャグ言ってる場合じゃない。セリフ、セリフ、思い出さないと!
しかし真っ白になった頭は戻らない。
「はい。」
その言葉を聞くまでは。
(?)(“はい”って言った?)(うそ)(信じられない)(嬉しい)
予定とはだいぶ違ったが、プロポーズは成功した。
気が付けば、催眠術にかかったように婚姻届を出していた。
(何これ)(幸せな夢?)
そう思っていると、鈍郎も頬をつねっていた。同じことを考えてくれているのかと思うと、嬉しくて仕方ない。
「ひとつ、訊いてもいいかな。」
鈍郎が質問してきた。
「どうして私と結婚しようと?」
あなたが好きだからよ!
「無駄が嫌いなので。」
私は何を言ってるんだ。
九古さんも呆れてるじゃないか。
「結婚はゴールではなくスタートです。スタート地点に行くまでに労力を費やしたくありません。」
焦った頭からは、どこかで聞いたような言説が出てきた。
それは本心と違ってないが、よりによって今!?
「なるほど。合理的だ。」
あ、同意してくれた。九古さんマジいい人。
「じゃあ、結婚しよう。」
「はい。」
茶倉は満面の笑顔と熱っぽい声で同意した・・・つもりだったが、実際には無表情と冷淡な声だった。
誰が言ったか、「ツンデレは心の病」と。
後に、その言説を聞いたとき、茶倉はグゥの音も出なかった。


- - - - - -


結婚してからが本番だとは、よく言ったものである。
茶倉と鈍郎のスタートは、しょっぱなから仲間たちからの猛反対を食らうことになった。
それだけ人気を集めているという意味ではあるのだが、しかしそれは、勝手に理想を押し付けるだけの独善的なものでしかなかった。悪い意味での注目。薄っぺらい人気。
このとき茶倉と鈍郎は、本当に仲間と呼べる者が誰であるかを知ることになる。
それぞれ、吉岡一曹と三角先輩。ひとりにひとりずつの、本当の味方。
それ以外は仲間ではなかった。
(せっかく幸せな気分に浸っていたというのに、水を差しやがって!)
茶倉はヘドが出そうな気持ちを堪え、辞表を提出した。表面的には素っ気なく、内心では怒りと失望で煮えくりかえりながら、茶倉は自衛官を退職した。
(怒るな)(怒っても無駄)(無駄)
この3年で貯金もそれなりにあり、母親の入院費を考えても、しばらく食べていく分には困らなそうだった。

鈍郎も、反対する仲間に対して絶縁状を叩きつけていた。
「久しぶりに良い気分になってたってのに、害しやがって・・・貴様らには心底うんざりだ。」
普段は丁寧で控えめな物言いをする鈍郎が、荒々しい口調になったので、一同は驚き沈黙した。
しかし鈍郎からすれば、怒って当然だった。「団結を守れ」「運動の利益を優先しろ」とかいう偉そうな物言いにも、「やめといた方がいいよ」「考え直してみたら」とかいう独善的な親切心にも、ヘドが出る!
「貴様らがどれだけ私たちを馬鹿にしているか、よくわかった。今後一切・・」
「そんな、馬鹿にしてなんて」
「黙れゴミ。二度と私に話しかけるなクソブタ。無駄な時間をどうもありがとう。永遠にさようなら。」
その場に唾を吐き捨てて、鈍郎は家に戻った。
語るのも苦々しくて、茶倉には詳細をぼかして簡潔に伝えた。
茶倉の方も、退職して専業主婦になるとだけ言った。
それぞれ、相手は新しい生活の為に今までの仕事や活動を切り捨てたのだと、それくらいに思っていた。
互いに、相手が狂おしいまでの激情を秘めていることには、気付いていなかった。
このときは。まだ。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
「サトリン」第二部まとめ読み
□□□□□ ...続きを見る
佐久間闇子と奇妙な世界
2016/10/01 01:06

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
「サトリン」 第十五話 約束のクリスマス (茶倉) 佐久間闇子と奇妙な世界/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる