佐久間闇子と奇妙な世界

アクセスカウンタ

zoom RSS 脱人間化について

<<   作成日時 : 2016/12/07 00:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

科学の発達は目覚ましいものがあり、かつてSFの領域であったものが、次々と今の現実となっている。
サイエンス・フィクションを論じることと、サイエンスを論じることは、近くなってきた。

「鉄腕アトム」が連載されていた時代に、誰が携帯電話、スマートフォンの到来を予見できただろうか。
コンピューターが、チェス、将棋、囲碁で、人間に勝つ日は、思っていたより遥かに速かった。
かつての難病は次々と対策が生み出され、遺伝子や脳の構造にまで解明が進んでいる。

将来的に人間は、既存の“人類”を脱して、不老不死に近いものを得るかもしれない。
医学の進歩が、再生医療に関する諸問題を解決したとき、それはいよいよ現実味を帯びてくる。
ゆえに、SFで提起されていた諸問題を、フィクションではなく現実として論じていかなくてはならなくなる。


“脱人間化”という概念は、古くから存在する。
既存の人間を脱して、超越的な存在になりたいと願う者は、昔から存在した。
不老不死になりたい権力者は枚挙に暇がないし、文学では神や悪魔、異能を持つ超人が多数描かれてきた。

科学が発達するごとに、脱人間化を目指す勢力は大きくなっていく。
これまでは夢物語と切って捨てていた人々も、恩恵に与かれることを期待して、賛同していく。
創作における、超人、異能といったものは、その流れに味方していることになるだろう。

そうした流れは、ひとつは人道的見地から危惧されている。
すなわち、脱人間化の恩恵に与かれるのは、特権的な富裕層、権力者が優先されるという話だ。
それは「14歳」でも描かれているが、本人たちは至って真面目に、しかし特権的な椅子に胡坐をかいて、
自分ないしは自分の遺伝子を受け継ぐ者を、優先的に生き残らせようとするのである。

特権的な人々は、自分たちの考え方を広めやすく、ますます格差は拡大する。
「鉄腕アトム」の作者は、「メトロポリス」のラストシーンでも科学に警鐘を鳴らしているが、
科学が人類を滅ぼすのと同じだけ、科学が格差をメチャクチャに拡大することは、忌むべきことだ。


しかしながら、脱人間化を希求する心理は、特権階級の傲慢さだけで論じてはならない。
共同体から逃れようとし、祖先の性質から逃れようとする心理は、必ずしも道理に悖るわけではない。

SFないしは異能を扱った作品を愛好する人々の、幾らかに共通する要素がある。
それは自分の属する共同体から、冷遇あるいは迫害を受けてきたということだ。

差別や偏見、否定や無理解などを浴び続けて育てば、その分を「取り戻したい」と考えるのは自然なこと。
彼ら彼女らの抱く望みは、一個の人間である限り“分不相応”な、人道的見地からは“傲慢”と見なされる
脱人間化に属するものとなり―――傲慢と言われるほどにフラストレーションを蓄積させ、より高い望みを抱く。

核兵器は、“力”の脱人間化として、ひとつのモデルとなっている。
アインシュタインが、後に核兵器反対を唱えたとしても、開発当時にドス黒いルサンチマンを抱いていたことは
少なくとも私は疑いようのない確信を抱いている。そのことは「セラフィック・フェザー」でも指摘されている。


倫理道徳や、“人道的”見地は、祖先の性質から逃れることで発展してきた。
“人間らしい温かさ”の半分くらいは動物とも重なっているが、もう半分は人類特有のものである。

野生動物の性質に基づけば、差別も戦争も、強姦も虐待も、全て肯定されてしまう。
いや、肯定されるどころでは済まない。それが“疑いようもなく当たり前”になるということだ。
野生の世界は、どこまでも残酷な弱肉強食であり、野生のルールを守っていれば、いかなる殺戮も正当だ。

人権という概念が、地球の歴史からすれば、滑稽な刹那であることは否めない。
しかし、人道的見地から脱人間化に警鐘を鳴らすのであれば、同じ見地から迫害に憎まねばならない。
ところが、脱人間化に関しては人道主義な人々が、迫害に関しては何故か獣の理屈になることが多い。
これでは「ミカるんX」で指摘されているような、「“超越”を酸っぱいブドウにしている」という指摘そのままだ。

SFは傲慢な超越であると同時に、現実から疎外された人々の、最後のオアシスである。
そしてオアシスであってもユートピアではなく、彼ら彼女らは何ら楽をしているわけでもないのだ。


共同体や祖先の性質は、ナショナリズムや優生思想に転化する危険性を秘めていることも、忘れてはならない。
それは決して右翼や反動的ないしは保守的な勢力の問題ではなく、むしろ市民の方が深刻だ。
知り合いの右翼に理知的な人々が多いからかもしれないが、私には“無辜の市民”が凶暴に見える。

例えば、オリンピックで国旗を振るのは誰だろう。日本の話だけではない。
右翼や保守反動は、少なからず自覚的で、“敵”の存在を、きっちり認識している。
だが、自分たちを中立、中道だと何の疑いもなく思い込んでいる市民は、味方面して少数者を疎外する。
“みんながやっている”ことを“やらない”人々を、“できない”のだと考え、未熟者扱いして見下す。善意によって。

共同体の中には、その共同体の大勢が何の疑いもなく馴染んでいる風習に、激しい拒否感を示す人もいるが、
そのことに無頓着な“中道”の市民と、自覚的かつ敵を尊重する右翼とでは、どちらが好感を持てるだろうか?

もちろん右翼の大半は、敵を尊重しない。左翼も同じだ。左翼の大半は、味方すら尊重しない。
そして右翼にも左翼にも属さない人々の大半は、少数派を尊重しない。ゆえに多数派になれるのだろう。


政治的な思想を論じていると、どうにも嫌気が差してくる。
自分は反戦平和の思想に共鳴するが、反戦平和を唱えている人々は、自分に共鳴しない。言葉が響かない。
かといって、賛戦や軍備拡張を唱える人々も、私の意見になど耳を貸さない。
政治方面は、自分が“少数者”であることを否応なく自覚させられる。それも悪い意味で。

どうせ自分がマイノリティーであると感じるならば、良い意味で認識する方が精神衛生的に良い。
SFは本来、そうした役目を担っている。特権階級への追い風は副産物でしかない。

科学の発達と、脱人間化の危険性について、警鐘を鳴らすのは良い。
しかし、少なくともここで論じた程度の精度は要求される。
杜撰な論を展開し続けるならば、疎外された人々の何割かは、やがて特権階級の心強い味方となるだろう。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
脱人間化について 佐久間闇子と奇妙な世界/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる