いつでも心に二律背反を

きっとさ、“ほんとう”の心なんてないんだよ。
迷ってるときに耳元で
「あなたの本心はこうだ」って言われると、
その気になってしまうんだ。

               (「千年狐」王霊孝)



双極性障害の自覚を、より強く持つことで、
病状こそ改善しないものの、客観視は進んだ気がします。

子供の頃に分かりかけていたことが、
大人になって分からないまま・・・だったものの1つが、
ふたたび分かりかけているのかもしれません。


抑鬱状態のときは、自分の本質は所詮こんなものだと思い、
しかし躁のときは、やはり自分の本質は今だと思うわけですが、
それらに明白な断絶が無いというのは不思議なものです。

つまりは、鬱々としているときでも、
躁のときに「これが本当の私ぃいいいいいい!!」と
テンション高かったことを、記憶だけでなく実感としても覚えていて、
躁のときでも、鬱のときに「所詮こんなもの」と沈んでいたことを、
やはり記憶だけでなく実感としても覚えているのです。

しんどかったときを忘却して昂揚するとか、
盛りあがっていたときを忘れて気分が沈むとかだったら、
わかりやすいと思うのです。そういう状態もあります。
不思議なのは、鮮明に覚えていて、かつ今が“ほんとう”の自分だという
確信にも似た実感がある・・・そんなときです。


明白な断絶が無い、というのは、
精神状態が躁鬱いずれにも跨っているような、
マージナルあるいはグラデーション的な状態もまた、
多く経験しているからです。(これを書いている今がまさにそれ)

写楽保介や武藤遊戯の、普段と悪魔的な性格の境界にあるような、
あの何とも言えない不可思議な表情をしているときが、
“ニュートラル”(素の状態)であると言えますが、
それは独立した上位自我とかではなくて、
あくまでもニュートラルであり、
それ以上でも以下でもないと思うのです。

アッキーでいえば、「落ち着いているが鬱ではない」状態が、
おそらく“ニュートラル”なのだと思います。
生活の殆どが、落ち着いていない状態か、落ち込んでる状態の、
いずれかに偏っているのですが、
精神疾患を患う以前は、この“ニュートラル”が普通にありました。


背反する感情は二ではなく三とか五とか十かもしれません。
それらが互いにケンカし合い、あるいは疎外し合っていると、
コンピューターと同じで処理に手間取り、体が重くなってしまう。
ろくに眠れず、食事もままならず、まともな生活が送れない。

「人は誰しも精神病になる可能性がある」なんて言葉は、
何の救いにも慰めにもならないし、
かえって(臨床的な部分で)偏見を助長しかねないですが、
その意味するところは分かるのですよね・・・。

より正確な表現を使うならば、
「精神疾患は人類史の必然である」と言うべきでしょうか。
これほど多くの感情を有していたら、
そりゃあ病みやすいだろうとは思うのです。
ただ、全てを内的要因で片付けようとするような考え方は、
哲学の範疇にはあっても、医学ではないわけです。

そしてまた私の哲学も、内的要因と外的要因は
確かな境界を持たないグラデーション構造になっている、
というスタンスになっています。
インターネットで天気図を確認するのは、
いつの間にかアッキーの日課となっている・・・。





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