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zoom RSS 文理融合とか教育めいたこと

<<   作成日時 : 2013/11/04 00:15   >>

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古来、音楽・数学・哲学・科学は、一体のものだった。
それが枝分かれに枝分かれして久しいが、それらを再び統合しようという動きが活発化してきたように思う。


私は理系だが、文系の素養も備えている。
呼吸をするように文章を書けるようになった(文章を書けなくなると息が苦しくなるようになった)のは、精神病になってからだったが、振り返ると子供の頃から文章を書くのは得意だった。

友人に“文章が数学的だ”と言われて気付いたことだが、確かに私は子供の頃から、数学的な頭で文章を書いていたように思う。
その友人から紹介された「子どもの頭は作文力で決まる!」という本に、“作文が上手ければ算数も出来る”という趣旨のことが書かれてあるが、やはり納得したものだった。

塾で生徒に数学を教えるとき、私は以下の式を書く。

数学力=国語力+計算力

あるいは。

数学力=論理的思考力+事務処理能力

学年が下なほど計算力が支配的であり、大人に近付くにつれて論理的思考力が支配的になる。
計算力では子供が大人を上回ることは珍しくないが、論理的思考力では大人と渡り合える子供は少ない。

論理的思考力は高くても、事務処理能力が低いことで数学が苦手になるパターンがある。
更に、なまじ論理に強いことで、教え方の粗が見えてしまって嫌いになるパターンも少なくない。

逆に、事務処理能力が高ければ、論理的思考力を補えるので、好成績を取ることも出来る。
私などは、そういった経緯で数学が得意になった。論理的思考力は後から付いてきた。

教科としての数学が苦手でも、論理的思考力に長けている人は多い。
そうした人が文学の方面で力を発揮することもあるのだ。

「1+1は、どうして2になるの?」という質問があるが、これに対する数学的な解答は割と身も蓋もないものだ。
すなわち、「そう決まっているから」である。
何故「そう決まっているのか」と問われれば、「設定したルールに従って絶対的な正解を積み重ねていくのが数学という学問であるから」という答えになる。

つまりは、設定を変えれば答も変わる。
2進法の世界では、1+1=10である。2進法の世界に2という数字は存在しない。
ルール設定や条件付けによっては、1+1を3にも4にも出来る。

これは文章を書くときと酷似しているのだ。
我々は、ルールに基づいて文章を書いている。文法の統一性、主張の一貫性、メッセージ、タブー、その他にも様々なルールが、意識的・無意識的に存在している。

主張に絶対的な正解など無いが、主張の一貫性を保つことが出来ていれば、少なくともその文章の限りでは論理的に正しい。

そして、ルール自体も変更可能であることも、やはり数学と同じことだ。


かといって、文系と理系を分けることが無意味だとは思わない。
杓子定規な分け方に反対することこそ吝かではないが、“分けてはならない”という主張には賛同できない。

融合や統合が進んでいるのは、ひとつは分けたことでの弊害が酷くなってきたことだが、選択肢を広げる為という意味合いも強い。
分けることを禁止したら、それはそれで選択肢が狭まるのではないだろうか。

私のイメージとしては、文理融合という流れは、柔軟性に富んだものである。
たとえ正しさを多く含んだ意見であっても、押し付けは柔軟性を阻害する。それはマズい。

高校で、理系コースと文系コースを分けるべきかどうか、これは難しい。
分けることで被害を被った人間が出ている以上、問題となっている事柄ではある。

ところが高校レベルともなると、学習内容の難易度が問題となってくる。
もしもコースを分けないと。
受験で必要が無く、ついていけない授業。これが増えることになる。苦痛だ。

それでは、授業を選択制にすればいいのか。
とりあえず、それ以上の名案は思いついていない。

もちろん個別の生徒に合わせた緻密な対応が出来れば理想だが、今の現場の状況で、それを教師に求めるわけにはいかない。
教師の負担が増えるということは、すなわち、負担を生徒に押し付ける教師が増えるということだ。


文理融合の話は、なかなか楽しく愉快な気分になるものではあるが、浮かれているわけにもいかない。

どんなジャンルの話をしようが、そこそこ徹底していくと、全面的な議論になってくる。
それは同時に、避けて通れない類の、重苦しい問題に突き当たることにもなってくる。

とりあえず結論として、どのような変革が成されるにしても、教師の負担を減らすことは必須。
それに関して話を展開するのは、また今度ということで・・・。


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内 容 ニックネーム/日時
中卒の私は、自分が文系か理系かわかりません。数学の前に算数ができないというくらい数学が苦手で、フジテレビ・ネプリーグの漢字クイズはたいがい全部行けるので、国語は得意です。
だから文系かどうかはわかりませんが。ちなみに理科も歴史も地理も苦手でした。
なるほど、確かにルールに基づいて文章を書いていますね。ほとんど無意識にです。
教育が最重要課題であることは論を待ちません。政治家はすぐにシステムを考えがちですが、生徒・児童にとって、最高の教育環境は、おそらく教師と家庭。なかでも教師でしょう。
担任は雑用が多くて、肝心要の子どもに接する時間が少なくなるという悪循環があると聞きます。
その大変さも知らずに、成績という数字だけを見て、「バカ教員」「くそ教育委員会」と罵倒するような政治屋、いや、権力者、いや、チンピラを退場させるほうが先だと思っています。
現場の教師の意見を聞かずに政治家脳でシステムを考えて変えても失敗すると思います。
私は昔、人形劇団を中学生とやりました。言うことを聞かないし、飛び回るし、注意したらヘッドロックしてくるし。
数人の中学生をまとめることも無理だと感じました。そのときに、何十人も受け持つ先生がどれだけ大変か痛感しました。
悪口なんか言えません。だから「バカ教員」なんて侮辱は絶対に許せません。
ブラックホーク
2013/11/04 20:59
>ブラックホークさん
様々な数学と教育の書物を読んで、その度に思っていますが、早くから論理的な思考が出来るようになった児童・生徒ほど、算数や数学が苦手になるという現象が広く存在しているようです。
高校までの数学は計算力ありきですが、論理とルールこそ数学の要であるということは、私も大人になってから意識してきたように思います。
算数を論理的に教えることが出来る教員は少なく、いたとしても他の児童との兼ね合いで、あまり対応できないと思います。そこで論理的な考えに目覚めた児童の「なぜ?」が置いていかれる。それを少しでも緩和したいですね。
教育問題で私が真っ先に考えることは、やはりクラスの人数を減らすことです。どうしても平均的(学力だけでなく能力のバランスでも)な児童生徒に照準を合わせた授業をするので、クラス人数が多いほど、はぐれる生徒も多くなります。いじめにも手が回らないでしょう。
そして何よりも、クラスの人数が多くなれば、私もホークさんも経験したように、まとめることが加速度的に難しくなるという問題があり、暴力と恫喝を基本とする教師が幅を利かせることになります。そして、その被害を受けるのは、真面目な生徒だったりする。
教師や教育委員会を非難していいのは、学校教育の矛盾軋轢を押し付けられた被害者に限られると思っています。現場を知らない政治屋が教師を非難するのを聞いていると、「お前が言うな」と思います。そして、教師が「現場を知らない人間が口を出すな!」と言う相手は、そういった連中であって、いじめられた被害者に対してではないはず。
どんなシステムを構築しようが、結局は現場の人間の具体的な仕事ありき。現場の教師と生徒の思っていることが、もっと前に出なければと思います。
アッキー
2013/11/04 22:57

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