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zoom RSS 市橋なるみ、バン・ディクート、玩具修理者

<<   作成日時 : 2015/10/12 00:10   >>

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生物と無生物の境界は、どこにあるのだろうか?
アナログは究極に進化したデジタルで、生命活動は複雑に組まれた分子運動で、生物と無生物の境界を生物学的に完全に定義するのは、もはや不可能であるように思える。

だけど我々は、そのへんの犬や猫について、それを生物と認識している。
また、ある人間について、“人でなし”と・・・人権を認めない、それこそ生物として認識しない場合もある。


生物学的アプローチは、過去に散々語ってきたので、短くまとめよう。
生物の条件とは、
1、自己を複製する
2、自己と非自己を区別する
3、代謝を行う
であるが、既に言葉の定義が曖昧なものを含んでいる。
ウイルス、コンピューター、星などが、生物と無生物の境界として有名だろう。

私は、それらも“ある程度の範囲で”生物だと考えている。
生物と無生物は、100か0ではない・・・100〜0の、不等式なのだ。
ここまでが物理学を交えた知見であり、それ系の本を読んでいれば手に入る知識だ。


「うえきの法則」でバン・ディクートの能力を目にしたとき、「ときめきトゥナイト」の市橋なるみを思い出したのは、私だけではないはずだ。
両者を比較した場合、おそらくバンの能力の限定条件は、「体液の付着」であると思われる。
(背後の石を放つ場合、あらかじめ汗のついた石を転がすか何かして細工しないといけないので、そりゃあチマチマした戦いに嫌気が差すのも当然だわなw)

さて、ここでいう“生物”とは何だろうか?
そのヒントは、鈴子・ジェラードのセリフに隠されている。

「顔のついた棒きれを・・・生物とは言わない。」

それまで生物と認識していたものを、生物と認識しなくなる。ここに生物と無生物の境界を紐解く鍵がある。
戦争でも何でも、相手を人間として認識しなければ、簡単に殺してしまえる。
これは別に、戦争でなくても同じだ。学校や会社でも、対等な人間と見なしていない相手には、平気で残酷なことが出来て、それを気にもしない。それが一般的な人間というものだ。

市橋なるみのメルヘンチックな能力を思い浮かべてみよう・・・すると、段々と本質が見えてくる。
結論を言うと、人が生物と見なす者は、“意思疎通が出来る者”であるといえる。
もっと正確には、“意思疎通できていると感じられる相手”であるが、そうでない存在に対して人間は、野菜を平気で噛み砕くように残虐になれるのだ!

意思疎通の是非は、科学的な定義より遥かに支配的である。
例えば、脳死問題。科学的には、完全な脳死と、脳波感知不能状態とは別であるが、どちらも意思疎通できないという点では同じで、“死人”として臓器を取り出される。
後者の場合は、「殺人鬼」さながらの地獄の苦痛が待っていることだろう・・・。

他の子と会話できない子は、ディス・コミュニケーションの烙印を押され、人間として劣っているとされる。
麻薬中毒の禁断症状で苦しんでいる人間を見て、とても“同じ人間”だとは思わないだろうし、精神病者も同じく。

よく考えるのは、「私は“こんな”になっても生物学的に生きているんだな・・・」というものである。
生物学的に考えれば、私は生きていることになるが、しかし自分が生きている感じがしない。
こんな苦しい状態で生きてるくらいなら、子供の頃に、さっさと死んでいればよかったと思う。

生物学的な“生物”とは別に、それを生物と認識するかどうか、そうした人間の認知も考えなくてはならない。
これを以って、「玩具修理者」に対する私の回答とする。


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