BJによろしくない

「しまった!ハナミズが在庫切れだっ!」

     (「県立地球防衛軍」まっする日本)



アッキーの知る限り、ロールシャッハ・テストが
いっとう真面目な形で使われているマンガは、
「県立地球防衛軍」(著:安永航一郎)である。

まっする日本は、それまでの戦いで鼻汁を出し尽くし、
新たなるロールシャッハ図形を作り出すことが出来ず、
正月仮面の初もうでビームを鳥居で吸収しつつも
勝敗が決着することなく意気投合した、という、
戦いの中で育まれる男同士の友情を描いた回だった。

・・・念のために言うと、ふざけているわけではない。

ある種の“効果”を狙ってはいるが、至って真面目だ。
いつもの安永節を味わいながら、
ロールシャッハ検査の本質を的確に表現していることに
感心したりと感情が忙しい読書だったと思い出す。


診断者の作為や偏見を指摘したのは、例えば、
「検察官キソガワ」の教授(レクターではない)だが、
そもそもロールシャッハ・テストそのものが
ある意味“ふざけた”検査であると言える。

“時は加速する”ではないが、高速化した現代において、
ロールシャッハ・テストは、信憑性の問題を置いても
効率が悪すぎて話にならないのだ。
百年前ならいざ知らず、
今となっては時代遅れと言わざるを得ない。

だが、サイコホラーなどを中心に
未だに使用頻度が高い代物でもあり、
時代遅れというよりは、時代劇と言った方が、
正確な表現だろうし、角も立たないだろう。


「フリークス」(著:綾辻行人)の解説で、
K女史の怜悧な指摘を読むと、
いつも思い出すのは「サイコドクター」である。

言うまでもなく「サイコドクター」は、
精神医学のアマチュアによる、間違いだらけの物語であり、
特に続編は作品の信憑性を大きく下げている。

だが、エンターテイメントとして面白いのも確かだ。

正確さとエンタメ性は、しばしば対立する。
そして正確さを優先することは、
必ずしも作品としての出来の良さを意味しない。

エンタメ性よりも医学的な正確さを優先しようとした
「ブラックジャックによろしく」精神病編は、
それゆえに正確さまでも損なってしまっている。


患者に無神経な“がんばれ”を投げつける研修医に、
それを叩き出そうともしない医者、
先行き不安な患者と、周囲や社会の偏見etc・・・

なるほど確かに、医学的な“ウソ”は無かろう。
そういう意味では正確であると言えなくもない。
しかし私は「まだ“そこ”なの?」と言わずにおれない。

なんというか、例えば・・・
“女性の社会進出”という言い方は、
家事労働は社会ではないようなニュアンスが含まれていて、
よろしくないのでは、という議論をしているときに、
“女性に魂はあるか?”という話を持ち出されたような気分だ。

ここまでズレがあると、怒りとかよりも、
いったい私は何十年前にタイムスリップしたのかという、
奇妙な不安感を覚えてやまない。


しかしながら、「ブラックジャックによろしく」の
精神病編が連載されていた当時は、
かなりの反響があったらしく、吃驚したものだった。

そのとき同時に、「のだめカンタービレ」に対する、
親戚の音楽家の感想を思い出したのは必然だった。

「ビーフラットにメゾフォルテ」以上に
頭おかしいクラシック音楽マンガに対して、
怒り出すか、寛容かの二択で考えていた私の予想を、
あっさりと裏切ってくれた感想が、
「フツー過ぎて何が面白いのか分からない」である。

これが音楽家の“普通”なのか・・・と身震いしたと同時に、
常識の五線譜が脳髄に書かれてないような彼女らも、
いちおう私の前では“セーブしていた”んだなあ・・・と、
無駄に納得したものだった。
少なくとも、モーツァルトは特別に下品ではないらしい。


すなわち私が「ブラックジャックによろしく」に対して
思っていることも、それと似たようなことなのだろう。

疾患の当事者であるアッキーからすれば、
やるせない現実をダラダラと引き延ばした挙句に、
結論それかよとしか思えない、面白みのない話だが、
おそらく一般的にはセンセーショナルだったのだろう。

未だに寒気が止まらない。


付け加えると、「“がんばれ”は禁句」というのは、
半端に広まった俗説である、とは指摘しておこう。
禁句なのではなくて、使いどころを間違えるな、という話だが、
どういうわけか「がんばらない」が独り歩きしている。

所詮は他人事だものな・・・と考える私も、
堅苦しい二者択一の人々が戸惑うのを他人事として見ているが、
なんにしても正解は「ロボレーザービーム」小山内理音の言う
「頑張りどころにメリハリをつける」ことにある。

言葉にすると単純だが、その単純なことが難しいのも
いつも通りの現実である・・・。


「ブラックジャックによろしく」精神病編が、
前後編か三話くらいに収まっていれば、
アッキーも苛つかなかったかもしれない。

「サイコドクター」がエンタメとして良いのは、
話をコンパクトに畳んでいるところにもある。
(一話完結の読み切り的な話もある)

時代劇で水戸黄門が「この印籠が目に入らぬか!」
「助さん格さん懲らしめてやりなさい」などと、
ヒーローショーの様式美を演じているのと同じことだ。

もちろん、フィクションと銘打つのは免罪符ではないが、
患者のファイルナンバーが飛び飛びな意味を考えると、
「サイコドクター」は誠実な方だろう。
ほとんどの患者は、エンターテイメントにならない、
地味で地道なカウンセリングと薬剤の日々である・・・。
その日々の平坦さは私自身よく知っている。


エンターテイメント性の重要さは語るべくもない。

K女史が「フリークス」3作を高く評価し、
綾辻氏に敬意を払っているのは、
医学的な“ウソ”がほとんど無いからの前に、
「人の心のあり方」への、重く深く切ないアプローチに、
ときめいたから、というのがあるはずだ。

明るく愉快なだけが“エンターテイメント”ではない。
これまた今更だが、案外忘れがちでもある。
「ガラスの仮面」ふたりの王女オーディションの、
“感動を与える”を考えると(私が)分かりやすい。


そして正確性とエンタメ性は、独立事象でもない。
正確さにおいてK女史のお墨付きを貰った
フリークス三部作は、エンタメとしても
サイコホラーの最高峰たる頂きに今なおあり続けている。

個人的に「夢魔の手」には、さほど思い入れはないが、
「四〇九号の患者」「フリークス」は
言うまでもなくアッキーの作風に多大な影響を与えている。
与え続けている。





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